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『聞きがたり農村史』

東敏男編著『聞きがたり農村史』3冊は、良い本である。その3冊目『村の指導者とインテリたち』の中に、茨城県那珂郡の川田村での大正時代の用水についての話がある。(187p)
川田村は、津田、市毛、堀口、枝川の4字から成り、今のひたちなか市南西部。南の那珂川の対岸は水戸市中心部である。場所がわかるような地図も作ってみた。

(聞き手)—-小場江の用水のことで揉めて。
(かたり手) これがなかなか出来なかったんですね。枝川では早戸川から水を引いてたんですね。津田、堀口、市毛は水が出ますから必要なかったんですよ、用水はね。
(聞き手)—-早戸川から水を取って、あとが下に流れて枝川地内の水田に行くわけですね。途中に小場江用水が流れてますから、その下を通して枝川の水田に水引いたわけですね。
(かたり手) そのころは、枝川は小場江に入っていなかったですから。山なんか伐っちゃったから、水源もなくなってきちゃったんですね。枝川の方まで回んなくなってきちゃったんです。それで枝川が小場江に入りたいというわけで(後略)

小場江用水は、那珂川と平行して北側に作られた30km以上に及ぶ用水で、川田村の枝川と市毛・堀口の境界あたりを通る(図に書込んだが十分正確ではない)。
早戸川は北から流れて来て、津田と市毛の境を流れて、枝川の東部で那珂川に合流する(図に書込)。
地図は現在の区画であり、枝川はもっと西まで広かったようで、川田村で最も戸数が多く「勢力があった」そうで、今は一部が水戸市に編入されている。他にも区域変更があるようだ。

津田、堀口、市毛は、水が出るので用水は不要だったという。「台地」とも書かれる。那珂川の扇状地であり、湧き水が出たのだろう。田は少ないのかもしれない。那珂川に接する枝川は、水はあまり出ないのは、那珂川が削った低地だからなのだろう。開拓時代に早戸川の水を引いて利用したが、小場江用水は使わないため、水を引いた堀は立体交差になったようだ。小場江用水と早戸川も交差している。
ともかく、扇状地の地帯では、湧き水が豊富だったということが確認できる。

「枝川は小場江(用水組合)に入っていなかった」が、
「山なんか伐っちゃったから、水源もなくなって」とは、明治時代から早戸川の上流域の開発が進んだことをいうのだろう。森林の開発は、大雨のときには逆に洪水を引き起こしたものだが、日本中で同じようなことが行なわれた。
この本は、同じ時代に多くの村でもあったような出来事が詳しくよく語られている。

村の面積の測り方

ここでいう村とは、今の大字のことだが、その大まかな面積を測るには、地図にマス目を描いて、マスの数を数えるしかないだろう。

最初に、地図を用意する。
Google Mapで大字名を検索すると、地図上に赤い線で境界が表示されるので、ちょうど良い。これを大きく表示し、画像キャプチャ機能で、画像ファイルに保存する。(江戸末期を想定して境界を若干修正)。
次に、地図画像の右下端の100メートルのスケールの長さを見ると、55ピクセルなので、50ピクセルになるように画像を縮小する。(地図画像を縦1100ピクセル(2000m相当)にトリミングし、それを縦1000ピクセルに縮小すると、目的に適う画像サイズになる)。
次に、1マスが50ピクセルの方眼のマス目画像を作り、地図に重ねる。1マスが1ヘクタールになる。
(面積をより正確に測るためには、1マスを小さく、例えば5ピクセルにすると良いかもしれない)

次に、マスの数を数える
1) 境界の内側に収まるマスを数える。
 5マス連続×40 = 200
 その他のマス = 23  計223。
2) 境界を含まない外側のマスを消し、
 境界ライン上のマスを数えると、84。 その半分の42をとる。(画像参照)

合計概算 223 + 42 = 265 ヘクタール。およその数字だが、265町歩である。

さて、江戸時代のある文書から、村の田畑の面積を書き出してみると、
 田  18町 16歩
 畑 119町 6反2畝余
田畑合計、137町6反余。四捨五入で、138町歩。
さきほどの265町からこれを差し引くと、127町余、これが田畑以外の土地になる。

田畑の割合いは、全体の約52パーセントにあたるが、それでは少なすぎるだろう。
田畑の測量では「延び」があるので、実際は60パーセントを越えるだろうし、「竪八横九」の通りとすると70パーセントくらいになる。

田畑以外には、屋敷地、山林、除地、道路、土手を含む川や堀、墓地などがある。

(次は、使用したマス目画像。透過型のGIF)