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郡境の話 その1

郡の境界は、自然の山脈や尾根、そして川であることが多いという話はある。

川でいえば、武蔵国の埼玉郡は、東に利根川(古利根川)を隔てて葛飾郡、、南西に荒川(元荒川)を隔てて足立郡だった。北西の幡羅郡との境は、不明である。

山脈や尾根が境界となるときは、どの尾根が基準となるのかは、時代によって違う場合がある。

埼玉県比企郡小川町の木呂子・勝呂・木部・靭負は、明治22年に比企郡竹沢村となる前は、男衾郡の村だった。
竹沢村は、ほかに兜川下流の比企郡笠原・原川の2村を含めて成立した。兜川は小川町を過ぎて槻川へ合流し、さらに都幾川~越辺川~入間川~荒川へと続く。地図で見ると、小川町自体が盆地ではあるが、旧竹沢村は、それとは別の奥まった所の小盆地のように見える。

現在の郡境は、より標高の高い尾根を基準にすることが多く、同じ川の流域は上流域まで同じ郡であるということが重視されているように見える。旧竹沢村も、それに該当し、今は全体が比企郡となっている。
しかし明治22年以前は4地域は男衾郡であった。その理由は何であろうか。

男衾郡は、今の寄居町の荒川以南と、そこから東へ続く地域であった。郡の南部は山地といえば山地だが、険しい山というほどのものはほとんどない。南西端の官ノ倉山(男衾・比企・秩父三郡の境)から西の釜伏山までは高いといえる山であるが、それ以外は、昔の人だったら気軽に越えられる山ということだろう。

航空写真で見ると、竹沢村の4地域は、昔は林業が主産業のような印象がある。木呂子・木部などに「木」の字が含まれる。それは比較的平地の多い小川町方面よりも、山地の多い北西の今の寄居町方面と共通性の多い文化があったのではないか。それが男衾郡に含まれた理由ではないかと思われるのである。
航空写真の赤線内が、木呂子・勝呂・木部・靭負の地域

同様のことは、官ノ倉山の南の秩父郡東秩父村でもいえそうである。東秩父村は槻川の上流域の村であり、西の秩父山地の高い山々を越えれば秩父盆地だが、盆地の外側、山脈の東側の地域である。しかし今も秩父郡である。

 郡境ではなく国境の例ではあるが、神奈川県の最北部の津久井郡(相模川の上流で相模湖があり中央高速が通っているところ)は、吉田東伍によると、もとは甲斐国であったとしている。
川の上流の地域とは、下流地域に従属するものではないということだろう。

余談になるが、
旧竹沢村の下流の笠原・原川は、どちらも「原」を含む地名である。兜川が流れて下って少し広い盆地に出たあたりである。大字としては2つとも川の左右方向に伸びた細長い地域であるが、その平地のあたりについては、
いかにも扇状地であり「原という地形について」 で書いた通りの地形といえる。

追記「狭くなった秩父郡」

秩父郡矢納村  →児玉郡矢納村(1890・明治23)
秩父郡白鳥村 風布・金尾 →大里郡寄居町(1943・昭和18)
秩父郡吾野村  →入間郡吾野村(1921・大正10)
秩父郡名栗村  →入間郡名栗村(1921・大正10)
(男衾郡木呂子・勝呂・木部・靭負 →比企郡竹沢村(1889・明治22))

上記の通りだが、さらに時代をさかのぼると、秩父郡はさらに広かったことも想定され、昔の「知々夫国」に行き着くのかもしれない。

「その2」として、平野部における郡域の移動をとりあげたいのだが

『北武蔵の地域形成―水と地形が織りなす歴史像―』という本

『北武蔵の地域形成』–水と地形が織なす歴史像–
地方史研究評議会編 雄山閣 2015 \6800

偶然にBook_Offという店で(格安で)入手。
北武蔵、主として熊谷市と行田市の範囲、その周辺の少しを扱っている。3部構成、13編の論文。
いくつか読んで見た。

Ⅰ 荒川利根川と地域拠点
「古代河川交通と森林開発」
律令制下の時代、郡家の建物にヒノキが多数使われるが、自生のヒノキは標高500メートル以上の山地にしか見られないことから、用材は運搬されたものだろうという話。
榛沢郡家跡から、運河らしき堀の跡が発見されている。用材は秩父北部の山地から、身馴川(小山川)を下って、どこかで運河へ入り、榛沢郡家まで運ばれたであろうと。
「藤原宮・泉官衙遺跡・徳丹城などで、建設資材搬入用と考えられる運河が発見されている」(25p)とかで、まっすぐ直線的に造られた運河も多いらしい。藤原宮の運河といえば、2008年に新聞記事について書いたことがある。→ 藤原宮の運河
榛沢郡以外の郡家、幡羅郡などでも、同様の方法で材木が運ばれたと推定するしかないが、その経路については、想定できるだけのじゅうぶんなデータがないのだろう。
ちなみに、近世の丈方川が、皿沼城の南から東方城の北まで、ほぼ一直線であるのは、築城時の資材運搬用に変造された可能性があるのではと、かねがね思っていたのだが。
また現代のように金さえ払えば材木は手に入ると思ったら大間違いで、厳格に地元ルールに従うのは当然として、樹霊をどう扱ったのかは、すぐにはわからないだろう。

Ⅱ 湧き水と生産生業
「北武蔵野酒造業と関東上酒試造」
Ⅲ 領域意識の形成と展開
「近世後期、熊谷地域における改革組合村」
下奈良村の名主吉田家の事業や公儀への協力を中心とした話。Ⅲのうちの「改革組合村」を先に読んだら、豪農吉田家の収入源について、織物の売買や金貸業などしか書かれず、不審に思ったが、Ⅱのほうを読むと、大規模な酒造や酒販売を営んでいたようである。
幡羅郡では、今の深谷市の範囲では畑作地帯が多いのだが、熊谷市方面となると、広大な田園地帯が広がり、石高1500石以上の大きな村々が多数隣り合って連続し、多数の豪農たちがあったろうことが想像される。しかしこの地域は、石高に比較して鎮守社が小規模である村が目だつのは、何か事情があるのだろうか。
また、豪農というより、既に近代的な産業経営の時代になっているようなので、近代であるなら福祉方面の取組みへの照射が必須だろう。

Ⅱのなかで
「近世荒川扇状地の河川と湧水について –忍領の事例を中心に–」
「河川」については、今の熊谷市の荒川北岸一帯(荒川新扇状地)には、放射状に小河川(星川など)が多くあり、荒川が幾度も流れを変えてきた名残川であろうという話。後世の成田用水などは、古い名残川の跡を利用している部分が多くあるそうだ。
ちなみに、荒川旧扇状地とは、三尻、別府、幡羅、あるいは榛沢郡など、低地との高低差がはっきり確認できる場所がある地帯をいうようだ。幡羅(原)とは高低差のある地形に由来する名称であろう。榛沢郡では「岡」と言ったようだ。
「湧水」については、江戸時代の文献からピックアップした一覧表が掲載されている。深谷市は原郷の一例が載り、全21例のリストは少ないかもしれないが、対象の文献は新編埼玉県史や新編武蔵風土記稿など活字化されたものが主であり、村々の文書には未着手のためなのだろう。
村人たちによる湧水の管理方法についての研究も書かれる。
近世文書における湧水を意味する語は、多数あるとのことで、たとえば
  「出水、湧水出水、湧出水、湧出する水、湧水、出泉、清泉、清水」(同書)。
 せんだって「大里郡神社誌」を調べたときは、「出水」は探さなかったが、今見たら用例はなかった。調べたときは電子データがあるので、「湧」の1字を丹念に探したり、「池」「沼」「泉」などを見つけては前後を読み入った。記事にはしなかったが、小字名にそれらしいものがいくつかあり、某末社の「清水神社」なども気になる。ともあれ、水の湧く場所は聖地と見なされ、神域となっていったところは多い。
この「河川と湧水について」の論は、当ブログと関心領域が重なり、興味深いので、あとで再読してみよう。

原という地形について

柳田國男は『地名の研究』で「野」という地名について、次のようにいう。

山・岡・谷・沢・野・原などという語を下に持った地名は、たいたいに皆開発の以前からあったものと見てよかろうが、その中でも実例がことに多く、意味に著しい変遷があったらしいのは「野」という言葉であった。
これは漢語の野という字を宛てた結果、今では平板なる低地のようにも解せられているけれども、「ノ」は本来は支那にはやや珍しい地形で、実は訳字の選定のむつかしかるべき語であった。
白山の山彙を取り繰らした飛騨・越前の大野郡、美濃と加賀との旧大野郡、さては大分県の大野郡という地名を見ても察せられるように、また花合せ・骨牌の八月をノという人があるように、元は野(ノ)というのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。
火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国でないと、見ることのできない奇抜な地形であり、これを制御して村を興し家を立てたのもまた一つのわが社会の特長であった。
野口、入野という類の大小の地名が、山深い高地にあるのもそのためで、これを現在の野の意味で解こうとすると不可解になるのである。

説得力のある説明である。
野とは、山の裾野や緩やかな丘陵など、地殻変動の大きく雨の多い日本に特有の地形であるという。
漢字の「野」は、漢字源によると、

予は、□印の物を横に引きずらしたさまを示し、のびる意を含む。野は「里+音符予」で、横にのびた広い田畑、のはらのこと。

野は、ただ広がっている土地というのであって、未開の「原野」に近い意味なのであろう。漢語で「野生」「野獣」「野卑」などがある。「野(や)に下る」というが、この野をノと読んでは感じがでない。

しかし、である。「原」についても同様に詳しく述べてもらいたかった。(電子本版で検索したが、野についてのような説明はないようである)。
藤原(ふぢわら、ふぢはら)などの地名が、「山深い高地にあるのもそのため」である、と言い切れるだけの説明がほしい。
しかしそれは、われわれ自身でやらねばならない。
そこで、まづ「漢字源」を見てみよう。

「厂(がけ)+泉(いずみ)」で、岩石の間のまるい穴から水がわく泉のこと。源の原字。水源であるから「もと」の意を派生する。
広い野原を意味するのは、原隰(げんしゅう)(泉の出る地)の意から。
また、きまじめを意味するのは、元(まるい頭)・頑(まるい頭→融通のきかない頭)などに当てた仮借字である。

水源という意味では、藤原滝原がこれにあたる。
「隰」は、「さわ。低くてしめった土地。低湿の地」とあり、葦原どがあたる。
その限りでは、和語のハラの元の意味は、漢字の「原」に近かったことになる。

広辞苑では、「原」とは「平らで広い土地。特に、耕作しない平地。野原。原野。万二(199)『埴安の御門の原に』」とある。
引用例の万葉集巻二の歌の「埴安」といえば、埴安の池という広大な池があったところである。この原が池の水源のことかは不明。御門とは高市皇子の住んだ宮のことらしい。
この歌は、柿本人麻呂が作った高市皇子のための挽歌であるが、同じ歌に他に2つの「原」が出てくる。
飛鳥の真神の原に、久方の天つ御門を畏くも定め給ひて」は、天武天皇の飛鳥浄御原宮のこと。
わざみが原の仮宮」は、壬申の乱のとき、美濃国での天武天皇の仮宮。
天皇の宮の名前には、他に、橿原宮、軽の堺原宮、飛鳥川原宮、藤原宮など、「原」の文字はよく使われる。その場所を賛美しての名なのだろう。高天原の時代からなのだらうか。こうしてみると、広辞苑の「平らで広い土地。特に、耕作しない平地。野原。原野」のどれにも当らないような気がする。

※ ちなみに、他に、天皇の宮の名で多いのは、穴(片塩の浮穴宮、志賀の高穴穂の宮、穴門の豊浦の宮、石上の穴穂宮)、岡(葛城の高岡宮、軽の境岡宮、飛鳥岡本宮、長岡宮)がある。

そこで『古事記』を見てみる。

最初は「高天原」。解釈は難しい。

次に殺された火の神・迦具土神の体から八柱の神が生れ、その一柱に原山津見神。
 つまり頭に正鹿山津見神。胸に、淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)。腹に、奥山津見神。陰に、闇山津見神。この闇山津見神は、渓谷の神といわれる。
 左の手に、志芸山津見神。右の手に、羽山津見神。
 左の足に、原山津見神。右の足に、戸山津見神。
語義不明の名前も多いが、山や谷、その裾野のあたりまでの地形からの名のようであり、火山活動によって成った山のそれぞれの部分の神々のようでもある。
原山津見神は左足。原とは、山の裾のどこかをいうのだろう。
右手の羽山津見神は、山の端、あるいは尾根のあたりとすると、足は陰(谷)とつながる部分なので、尾根と尾根の間の土地、蛙の足でいうと水掻きに相当する部分ということになるだろうか。ここは扇状地であることが多い。谷から下る川によって原は左右に分割され、原山津見神と戸山津見神。群馬県の至仏山の東が戸倉、西が藤原であるのは偶然か(山で左右に分れる例だが)。

次に「葦原の中つ国」の「葦原」。これも難しい。

次に「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきはら)」で伊邪那伎神が、禊ぎをする。「阿波岐原」は、清い水が豊富な場所に違いない。やはり水源地であろう。それほど高くない滝があり、滝の水を浴びての禊ぎなのかもしれないが、後世では介添の巫女もあった。

次に、三貴紳の誕生。天照大神は「高天原を知らせ」、月読命は「夜の食国を知らせ」、須佐之男命は「海原を知らせ」とある。
「海原」とは、比喩的表現なのだろうか、それとも原にはもともと「海原」にふさわしい意味があるのだろうか。原は、夜の食国の「国」と同等のようにもとれる。

次に「天の安の河原」に八百万の神が集う。
河原とは、現在では、川の岸辺のことで、増水すれば水に覆われる。海原は、海辺のことではなく、常に広い海原のことである。河原の原と海原の原は同じではないのではないか。

大野晋『日本語の形成』によると、タミル語では、海を意味する paraval という言葉があり、天を意味する param もあり、原を意味する para もあり、それぞれ別の語とすれば日本語も同様なのかもしれない。さらに、parampu(台地)という言葉について「滝のある山の下の丘の斜面」というタミル語の成句らしき用例も載る。
同書では、日本語の原の意味としては次の用例を載せる。

「高平をといふ 和名波良」(和名抄)
「車をむかひの山の前なるはらにやりて」(源氏 蜻蛉)

この源氏物語の「はら」は、原山津見神の生れたあたりに近い。和名抄の「高平」もほぼ同様で台地の意味だろうか。野との違いは、野が山裾の傾斜面、原は谷から続く川による堆積による平地ということかも。

4代懿徳天皇の「軽の境岡宮」と8代孝元天皇の「軽の境原宮」の場所がはっきりすれば、岡と原の違いもわかるかもしれない。
『日本国語大辞典』については「は」の項を含む1冊が見つからず、見つけ次第、追記する予定。(辞典を確認してみたが、原の語義の説明は小辞典並みの短いものであり、この辞典の悪い所である歴代諸氏による荒唐無稽の語源解釈を延々と掲載。この問題については全く役に立たない)