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『聞きがたり農村史』

東敏男編著『聞きがたり農村史』3冊は、良い本である。その3冊目『村の指導者とインテリたち』の中に、茨城県那珂郡の川田村での大正時代の用水についての話がある。(187p)
川田村は、津田、市毛、堀口、枝川の4字から成り、今のひたちなか市南西部。南の那珂川の対岸は水戸市中心部である。場所がわかるような地図も作ってみた。

(聞き手)—-小場江の用水のことで揉めて。
(かたり手) これがなかなか出来なかったんですね。枝川では早戸川から水を引いてたんですね。津田、堀口、市毛は水が出ますから必要なかったんですよ、用水はね。
(聞き手)—-早戸川から水を取って、あとが下に流れて枝川地内の水田に行くわけですね。途中に小場江用水が流れてますから、その下を通して枝川の水田に水引いたわけですね。
(かたり手) そのころは、枝川は小場江に入っていなかったですから。山なんか伐っちゃったから、水源もなくなってきちゃったんですね。枝川の方まで回んなくなってきちゃったんです。それで枝川が小場江に入りたいというわけで(後略)

小場江用水は、那珂川と平行して北側に作られた30km以上に及ぶ用水で、川田村の枝川と市毛・堀口の境界あたりを通る(図に書込んだが十分正確ではない)。
早戸川は北から流れて来て、津田と市毛の境を流れて、枝川の東部で那珂川に合流する(図に書込)。
地図は現在の区画であり、枝川はもっと西まで広かったようで、川田村で最も戸数が多く「勢力があった」そうで、今は一部が水戸市に編入されている。他にも区域変更があるようだ。

津田、堀口、市毛は、水が出るので用水は不要だったという。「台地」とも書かれる。那珂川の扇状地であり、湧き水が出たのだろう。田は少ないのかもしれない。那珂川に接する枝川は、水はあまり出ないのは、那珂川が削った低地だからなのだろう。開拓時代に早戸川の水を引いて利用したが、小場江用水は使わないため、水を引いた堀は立体交差になったようだ。小場江用水と早戸川も交差している。
ともかく、扇状地の地帯では、湧き水が豊富だったということが確認できる。

「枝川は小場江(用水組合)に入っていなかった」が、
「山なんか伐っちゃったから、水源もなくなって」とは、明治時代から早戸川の上流域の開発が進んだことをいうのだろう。森林の開発は、大雨のときには逆に洪水を引き起こしたものだが、日本中で同じようなことが行なわれた。
この本は、同じ時代に多くの村でもあったような出来事が詳しくよく語られている。

『大里郡神社誌』における湧き水の記録

昭和5年発行『埼玉県大里郡神社誌』に記載された湧き水に関連する部分、その可能性のある部分などを抜粋。湧水でないものも含まれるだろう。市町村名は現行のもの。
大里郡とは、明治29年(1896)に旧大里・幡羅・榛沢・男衾の4郡の合併により成立。以下では旧幡羅・榛沢郡域で多い。

熊谷市上之 上之村神社

氏子区域の中央部に池あり。広さ二二〇坪。これは村内字琵琶湖にありしも、接続の関係上、隣地主が埋立て、今は小部分の池となれり。
摂社大雷神社は、安政年間より旧比企・児玉・男衾・榛沢の各郡の崇敬者より雨乞の祈祷を申出づるもの多く、御手洗池の水を借り受け、帰村して祈願を為す時は、日ならずして雷雨ありしと、今なほ報賽 頗る多し。

熊谷市宮町 高城神社

寛文10年庚戌の始めより里人のいひけるは、社の傍に小樽の木の年古りて、高さは八丈五尺、周囲は一丈五尺、枝は十四、五間もはびこれるものあり。この樹、地をさること三尺ばかりの処に空なる穴あり、口は七寸ばかりにして内はいと広く、洞穴の如し。その中より清水 湧き出で、絶ゆることなし。若しこの水を用ひて諸々の病を治すれば、必ず感応の効を得んと、この事いつしか近国に聞えければ、人々 日々集り参りて御水を戴けるに、果して諸病に効験ありき。

熊谷市 佐谷田神社 

御神井 石畳中に噴出の井 一ヶ所

熊谷市(旧妻沼町)日向字八幡間掘の内 長井神社
同 上須戸 八幡大神社
 龍海については長井神社の項に詳しいが、以下は上須戸の項より抜粋。

日向、上須戸の間に四町四方の池あり、これを龍海といふ。常に大蛇棲みて村民を悩ます。土豪 島田大五郎道竿(中略)一日西方に向ひて南無弓矢八幡を念願し、村民に令して渠を掘り、その水を利根川に落(今その堀を道竿堀といふ)さしむ。(中略)龍海の中央には弁財天を安置して、龍蛇の霊を慰むといふ。合祀社 厳島神社これなり。時に天喜5年8月15日の事なりきといふ。

熊谷市(旧妻沼町)弁財 字沼上 厳島神社

神社の背後に弁天沼と称する古沼あり。往昔は二町余の面積を有し、深さも十数尋に及べりといふ。然れどもその地 字の共有なるが故、輓近埋立て畑となし、現在僅に3畝余歩の池沼を存するのみ。

熊谷市(旧妻沼町)葛和田 神明社

御神井 一ヶ所

旧妻沼町妻沼 大我井神社の項

若宮八幡宮湧泉之記
夫原若宮八幡宮者、建久年中、右大将源頼朝卿、従武蔵野下野那須野原巡行之時、老杉之下停、於駕勝景有詠覧之地郷閭崇尊之、則造営一社、恭奉勧請石清水大神宮。
(中略)壬戌之秋八月 東国水嵐烈水溢前波後浪渾々?々如流如奔往々遭于険者衆也 井河濁不食竟絶食者数日 実以庶民之憂也、
雖然非天命 靡常社傍自淤泥中清泉涓々而湧出、郷人奇之不勝歎躍用汲用味則得免飢渇 今嗚呼赫今壮分 石清水之霊験 輝光厥福今願厥禎祥也(以下略)

熊谷市奈良 奈良神社

神社より東北二~三町にして、往昔 湧泉の旧蹟あり。現在 水田となりて神社の所有なり。この地は「和銅四年神社之中忽有湧泉自然奔出漑田六百余町」(三代実録)とある旧跡なりと言ひ伝ふ。中古まで 沼沢の地たりしを、弘化年中、時の名主 野中彦兵衛が地頭 曲淵重左衛門殿に乞ひ、免許を得て田となせりと、その書類 今なほ 同家に保存す。現にその傍の小字を沼ノ上といふを見ても、涌泉の事跡 以て証すべし。
御手洗は、和銅の昔 涌泉の地にして、今その旧蹟を表記せる碑石を設く。

熊谷市代 八幡神社

御神井 一箇所

熊谷市 玉井大神社 

僧某、東国に下り当地に滞在中、両眼を病み、偶々霊夢に感じ、里人を鼓舞して井を掘らせしめ、その水を以て眼を洗ひしに、忽ち癒ゆ。乃ち傍に井の神を祭りて、井殿明神と称す。里名の玉の井、これより起れりといふ。後、社名を改めて玉井大神社と称す。

熊谷市西別府 湯殿神社

当社御手洗に湧出する清泉は、透麗の気 人身の邪熱を払ひ、諸病の流行を防止する効ありとなし、往昔より春夏の候、参詣者のこれを汲むもの多し。而してその下流は、田園潅漑するもの幾百町歩、人民その沢に霑ふこと甚だ多しと伝へいふ。

熊谷市三尻 八幡神社

沼田一九一五番 溜井 反別1反1歩

深谷市上増田 諏訪山神社

古は現社殿の後方に広き「諏訪森」の森厳なるを有し、「諏訪池」の大なる碧水を漲らせて、太古そのままなる神域なりきといふ。

深谷市東方 熊野大神社

基本財産(不動産) 池沼 1町1反6畝18歩

深谷市原郷 楡山神社 記載無し。編集主幹のため頁数を抑制したか。

深谷市上柴町(柴崎) 諏訪神社

神社の付近に穴の口径丈余に及べる古井戸穿ちありて、当時深谷城の飲料水に供せられしと伝へられ

深谷市上野台 八幡神社 湧水による池あり。次の「神井」のことかは不明。

神井 覆屋付 大正15年

深谷市西島 瀧宮神社 

神池 3反3畝歩を有す。

深谷市下手計 鹿島神社 

境内に大欅あり。周囲約三十五尺、中心空洞にして底に井あり。(中略)神霊の加護し給ふ神井の水なればとて、これを汲みて多年の宿痾病患の者に与へ、或いは彼神水にて身を清め、鹿島の神に諸心願を罩め希代の霊験を蒙りし者 往々ありければ、打寄りて浴舎を設け、諸人の助にとて浴湯を始めしに、神験著しく老若群集せしが、別当職の老死後 暫く休止し居たるを、文政の末年再興し、明治の初年まで経営せられしも、後嗣の幼かりし為めまたまた廃されてそのままとなり了れり。

深谷市(旧岡部町)普済寺 字菅原 菅原神社

当時境内に清泉湧出して、社の以東数ヶ村の用水の起原たるを以て、水利関係の数ヶ村より毎年幣帛料を奉納して、特に崇敬せり。

深谷市(旧岡部町)山河 伊奈利神社

社領山林に三日月池と称する所あり。これ当社を離る約八町の西南方にて、鎌倉幕府時代、前橋より鎌倉に到る通路に沿ふ。古老の伝説に依るに、元 清水滾々として湧出し、暑中旅人の渇を慰むるに適し、もと不思議にも三日月これに映りしが、一馬丁の馬鮭を沾してより清澄掬すべき霊水も俄然沽渇せりといふ。
社領 字西谷  山林   4畝24歩  三日月池所在地

深谷市(旧岡部町)山崎 天神社

弁天社 往古より別当寺地蔵院の管理せるものにて、今なほ3月18日大護摩修行し、当日年々大神楽、芝居、飾物等の余興ありて、参拝する者多し。御霊像安置 承和元年弘法大師御作とあり。御池1反8畝の中に社地1畝18歩あり

深谷市(旧岡部町)本郷 藤田神社

舞楽、獅子舞行事の相伝あり。古老の口碑に、中古はこの行事 最も盛に行はれて、その祭の日は社頭を始め氏子区域中を舞ひめぐり、終りに本村字象殿といふ山中のに舞込といふ。舞楽を行ひつつ舞行くときは必ず急雨ありて、近隣の農作物を潤し、不作を免れしといふ。付近この祭を本郷の雨乞祭と俗称し、年々供奉者は増加して、盛大なる祭祀の年中行事なり。

深谷市(旧花園町)黒田 豊栄神社

元社地付近に御手洗の池あり。四時清水湧出し、池中に魚類多く棲息すれども、これを捕食すればその一家断絶すべしと称し、現今に至るも里民のこれを捕獲するものなし。

深谷市(旧川本町)瀬山 字東中井 八幡神社

神域前方の泥池に莚を浸したるを持ち来りてかぶせ廻る。前記 当餅の争奪より起れる奇習にして、瀬山の莚かぶせと称ひ、近郷に名高く参観者極めて多し。近時非文明の行事なりとして廃止せらる。

寄居町用土 字藤田 貴船神社

神社の西方に俗に御池と称する池あり、中央小高き島上に弁天社を祭る。祈雨祭の時は、この池の水を汲みて村民一同にて祭を行ふを例とす。また他より御水を借り来りし時は、その水を池に入れて祈雨祭を行ふ。

寄居町 宗像神社

末社 水波能女神社は、境内の真名池の水神を祀ると称し、末社となる。

寄居町赤浜 出雲乃伊波比神社

明和8年、稀有なる旱魃あり。本村各戸の井水、悉く凋れて飲用水 欠乏したりし時に当り、宮井及び神木の根元より▲冷水滾々として湧出し、本村は勿論、隣村 富田よりも、牛馬の飲用水より家内の飲み水に至るまで使用したりといふ。
(古文書)「西は溜沼より厳を限り」

熊谷市(旧大里町)吉見神社 

神社を距る東南凡そ六丁、一の霊井水あり。大旱魃と雖も渇水することなし。文治の昔、源義経の従士 亀井六郎、この地に来り俄に疾病す。乃ち当神社に丹精を凝し祈請を篭め、その霊井水を掬飲せしに、忽ちにして病癒ゆるに至る。これ全く神水の致す所と為し、大に歓喜し、篤く報賽して出発すと伝ふ。爾来この霊井を称して亀井と称へ、その地区を亀井区といふ。今なほ現存す。
2反3畝歩 沼地を存せし

熊谷市(旧江南町)千代 飯玉神社 

社前に古池あり、里唱 御池といふ。池中に棲める魚類凡て片眼なりと称せらる。

幡羅郷の湧水群

武蔵国幡羅郡の幡羅郷と比定される地域の湧水群をたどってみよう。
図は、埼玉県の深谷市と熊谷市の境界付近の、福川と別府沼などを含めた現在の地図である(台地部分は黄緑色)。(Yahoo地図)

 熊谷市 西別府
東の江袋沼は、別府沼の水を溜めておくために作られたものと諸書にある沼。その南西の先の細長い沼が、別府沼である。別府沼の西は、神社(湯殿神社)の境内の内まで連続し、境内の部分は「御手洗(みたらし)の池」と呼ばれ、昭和のころまでは湧水があったという。地図上の台地がU字形にえぐれた部分の中心が出水点であり、「滝下」という地名もあり、旧神職家は滝口氏である。その南西、深谷市東方にかけて幡羅郡家跡が発掘された。沼の大部分は今は公園として整備されている。

細長い沼の、南側は台地上に民家が立ち並び、北側の低地が水田地帯である。台地と低地との高低差が比較的大きく、崖のわきからの出水が多かったというのが、幡羅(ハラ)郷の地形の特徴である。漢字の「原」の意味は、「厂(がけ)+泉(いずみ)」であり、文字の通りの地形である。大和言葉でも「まほら」などから説明できるだろう。

次の地図は昭和初期のもので、上図と同じ範囲のもの。東から、西別府、東方、原郷の大字名の記載もある。
福川の川筋にいくつか違いが見られるが、詳細は省く。江袋沼から西では「城北川」の名であった。江戸時代は「丈方川」の名が一般的でもあった。

 深谷市 東方
下の地図の「東方」の文字のあたりに、細長い沼があるのがわかる。
この沼は、江戸時代の絵図面にも描かれてある。南西の台地上に熊野大神社があるが、昭和5年の『大里郡神社誌』には「熊野大神社 基本財産、池沼 一町一反六畝十八歩」とある。今は、地元の人の記憶にも「あったということは聞いている」と言う程度で、記憶は薄れている。

上図の青枠の範囲の拡大が、次の地図である。小字の名が細かく記載されている。
字名「城下」のあたりが、沼の位置である。しかし上の地図の沼は、「城下」の範囲より東西に長く、特に沼の西端は、西の原郷の「根岸沼」に達しているように見える。「城下」の東北には「沼辺」という広い地域がある。「沼辺」の南の高い台地上に「東方城」があった。(城下の東の先にも、「川足下」「寺下」という台地下の細長い地帯があり、細長い沼だった可能性もある。 )

「欠下」という地名があるが、崖はもとは濁らずにカケと言ったと国語辞書にある通り、崖下の意味である。「欠下」の上が「欠下台」である。
現在の東方北部は広い田園地帯になっているが、江戸時代の絵図面では畑が多く点在し(社地もあり)、そのために小字名が細かく区分されている。興味深い地名が多いが、これらの点在する小台地からの出水も、ありえない話ではないだろう。

 深谷市 原郷
次は、文政6年の原郷村の絵図面の一部である。北に丈方川が描かれ、中央から西と南は台地地帯である。台地の縁に沿って水路が描かれる。
地図の東部の、丈方川と水路(堀)に囲まれる一帯が、小字の「根岸沼」である。
水路は、根岸沼の南で太さや広さを増し、沼と呼んでよいような状態である。東側でも幅を増しているが、東方の「城下」の沼に続くものかもしれない。西側には、2ヶ所、水色の水脈らしきものが描かれ、「出水落込五尺」「出水落込四尺」という文字が見える。崖または急斜面の途中、水面から五尺ないし四尺の高さから、出水があるという意味だろう。
北側では、丈方川に平行して細い堀があり、「落込五尺」と書かれる所もあり、その西方に文字はないが水脈らしきものが描かれる。図のこの部分だけでも4ヶ所の出水が確認できる。この付近の台地上が「木之本古墳群」の中心地帯である。
川と平行する細い堀は、西北方向にも楡山神社の先まで延々として続き、多くの出水があった。崖からではなく、台地上の集落内(八日市)からの湧水もあった。湧水の意味の「出水」は江戸時代は「ですい」と言ったかしい。

別府沼から原郷までの台地の縁をたどってきて、台地の縁の沼がどのように形成されたかがわかると思う。
もとは台地の縁の崖から、多数の出水があった。小さな渕ができ、隣の渕とつながって横へ横へと延びて行く。出水の多いところでは沼を形成し、そこへ脇から一続きとなって流れてきた水も溜まる。水は溢れて、近くの低地を流れる川へと流れ出す。

江戸時代の西別府村は、1200石を越える田があり、用水は奈良堰(荒川用水)を利用とある。東方村は田は500石で、用水は同様。湧き水の利用は不明だが、他村に羨ましがられるので記録は残りにくいようだ。原郷村は田は 120石ほど。「用水は備前渠用水より引水」と書かれることもあるが、上流の村の悪水(排水)が丈方川に入り、それを使うだけなので難儀していると書く文書もあり、また備前渠用水組合に加入していない。
原郷村から西の村は、田の面積はあまり多くなく、隣の榛沢郡西島村の用水もよくわからない。普済寺村では820石の田があるが、湧水が多く二つの池を利用とある。岡下村や岡村は小山川からの西田用水などである。

渋沢、藤原(地名の話)

渋沢という苗字(名字)は、群馬県南部と埼玉県北部に多く長野県にもあるという。
埼玉県の有名人では、渋沢栄一。その一族は、江戸時代に入り上州の大館あたりから移って来たであろうことが、一族の渋沢仁山の書の落款に「大舘氏徴庵」(*)とあることから推定されつつある。彼らは榛沢郡内だが、幡羅郡内にも渋沢姓は多い。

群馬県の尾瀬地方に、至仏山があり渋沢という川が流れていると聞いたので、至仏山はシブツヤマと読むのか、シブッサワが縮まればシブサワになるだろうとか、至仏とはアイヌ語由来の地名の可能性ありの印象を受け、気になっていた。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』を開くと、B音はないのでP音で「シプ……」のあたりを見ると
「si-pet しぺッ 本流; 本流の水上」(みなかみ)
とある。北海道の、士別、標津などと表記される地名(シベツ)が、これなのだろう。青森県以南にはシベ…の地名はないので(大字では)、シブと変化した可能性がある。

Google地図で至仏山を見ると、
至仏山の東側が、尾瀬のある利根郡みなかみ町戸倉、西側が利根川の上流である みなかみ町藤原(旧藤原村)である。
尾瀬には湿原へ流れこむ沢がたくさんある。渋沢は見つからなかったが、山の西側の、利根川の水源地の地名が藤原であることに驚いた。

藤原という地名については、
折口信夫の『水の女』によれば、藤原?渕原は、水源地のことだった(関連記事「幡羅(原)という地名)。
利根川の水源地の村の名が藤原だということは、「水の女」が書かれたころは、一定の人たちの共通知識だったのではなかろうか。
大日本地名辞書に、「利根の水源は藤原山に出づるとの事は、早く義経記に之を道破せり」と書かれる。今は藤原山は最北部の1つ手前の山の名であり、その奥の大水上山が、今は利根川の水源地とされる。藤原は、広い平原というほどのものはないような、山間の土地である。
地名辞書によると、安倍氏が潜んでいたとか八掬脛の伝説もあるようだ。奥州藤原氏のことは書かれていない。義経記の本の成立はともかく、義経の時代に藤原の地名はあったとみているのだろう(落ち武者はそのあと)。
東京都西多摩郡檜原村、秋川の上流の水源地にも藤原の地名がある。佐賀県にもある。さがせば他にもあるのだろう。

また、大和の藤原宮については、「運河と水の都であったらしい」と書いたことがある。
藤原宮の運河(神話の森のブログ)

さて、至仏山の話だが、地図では渋沢は確認できない。
調べると「尾瀬の地名とその由来」http://www.oze.gr.jp/?oze/yurai.html
に説明があった。

ムジナ沢  狢沢。別名至仏沢とも言い、登山道が開かれない時代はこの沢が唯一の登山ルートでした。至仏沢は渋沢の意味で沢の岩石が赤渋色をしており、また沢の藪くぐりの難行で登りつめたところから、この沢の名前が山の名前になったと言われています。

至仏沢の名が先で、山の名は後だという。
ムジナ沢は、至仏山から湿原へ続く短い沢であり、本流とはいえないかもしれず、「赤渋色」で良いのかもしれない。ただ、流れの方向は、他の多くの沢と異なり、樹木でいえば幹の中心に見えるので本流といえるかもしれず、至仏沢という貴い文字も使われている。検討課題としておく。
とはいえ、この地に集落が営めるかどうかは不明であり、至仏沢が渋沢氏の本貫とも思えないので、もっと南のほうにあるのかもしれない。

そのほかのアイヌ語地名(「渋」がすべてsi-petとは限らない)
 simpuy, -e しプィ 湧水の穴; 自然の井戸。(渋井?)

地図の右下に至仏山。濃い青でなぞったのが至仏沢。湿原の南北に多数の沢がある。赤線内が藤原、最北部に藤原山。

* 徴庵 徴庵とは造語だろうが、隠れ家のような意味ではあるが、渋沢仁山の作ったある漢詩の内容から考えるに、「徴士の庵」の意味だろう。徴士とは、「朝廷から直接招かれながら、官職につこうとしない学徳の高い人。▽これをほめて徴君ともいう。」と漢字源にある。「徴君」は他人による尊称なので「徴士」の意味だろう。

荒川扇状地と湧水

扇状地とは、「河川が山地から平野に出て、急に勾配がゆるく谷幅が広くなったところに、運んできた砂礫を堆積するために形成される緩傾斜扇状の地形」(ブリタニカ国際大百科事典)であり、「流水は透水性の大きい砂礫中に浸透し、(中略)浸透した水は扇端部で再び湧出するため、古くから扇端部に集落が発達した」(同上)と説明される。
関東第二の川、荒川は、埼玉県の秩父山地に始まり、秩父盆地を流れ、寄居町付近で関東平野へ出て、その先に扇状地が形成されている。東流する川の南側は丘陵地帯が多いためか、扇状地は主として川の北側へ形成された。
この扇状地は、今の深谷市、および熊谷市の一部へ広がっている。

略地図上に、扇形を描いてみた。東西に細長い形をしているのは、北側を利根川が削っていったためと思われる。
扇端部には、旧武蔵国幡羅郡榛沢郡の2つの郡家跡が発掘され、「古くから発達した集落」があっとことを裏づける。
幡羅郡家は、「別府沼公園」のやや南西、榛沢郡家は、扇形の西北の角あたりである。
江戸時代以後の中山道は、扇端部に近い台地上を通っている。中山道は国道17号線に重なる部分もある。
「浸透した水は扇端部で再び湧出する」とされる扇端部の湧水については、略地図上からは「別府沼公園」が確認されるくらいである。しかし別府沼より西では、深谷市原郷東方に湧水を確認できる地図が残され、榛沢郡家跡に河川跡が発掘されたというが、重要建物のすぐそばなので、増水の心配のない別府沼のような細長い湧水沼か運河のことなのだろう。東では、熊谷市の玉井という地名、奈良における上代の湧水記録などが確認できる。これらについては、別に述べる。
環境省ホームページ内に、「埼玉県の代表的な湧水」という一覧表がある。
https://www.env.go.jp/water/yusui/result/sub4-2/PRE11-4-2.html
以下は同ページからの深谷市内の湧水の引用である。熊谷市のものは一覧にない。

深谷市西島5丁目 下台池公園 市民公園内の池に流入。
深谷市西島5丁目 瀧宮神社 神社の境内内の池に流入
深谷市岡 島護産泰神社 神社の境内杉林の中から水路に流入。
深谷市普済寺 厳島神社 神社敷地内にある。水源地周辺は立入禁止。
深谷市本郷 弘法の井戸 弘法の井戸保存会によって整備された。
深谷市山崎 弁天池 用水組合により整備された。
深谷市永田 八幡神社宮下の池 八幡神社東側の林の中にある。
深谷市永田 清水池 周囲はけやきの大木が目立つ。
深谷市永田 柳出井池 地元住民によって整備されている。
深谷市永田 不動の滝 由来についての説明看板がある。
深谷市黒田 黒田宮ノ台地内の池 坂地にあり水が染み出している。
深谷市黒田 豊栄神社 昔は池があったが取り壊された。
深谷市田中 清水湧水 鯉の養殖用に使われていた。
深谷市田中 見目湧水 旧水道取水施設だった。

以上の14件のうち、平成合併以前の深谷市については、西島の2つのみである。熊谷市のゼロと合わせ、関心の薄さがわかる。西島の2つは、断層の影響も考えられるが、扇端部の湧水の範囲であろう。
旧岡部町の岡、普済寺の2つの神社のものは扇端部の湧水といえる
旧岡部町本郷「弘法の井戸」は、諏訪山の麓であり、山の水が主であろう。山崎「弁天池」は、山崎山の北、小山川の支流の近くである。
旧花園町は永田と黒田に6つ。関心の高さを伺わせる。
旧川本町田中に2つ。
詳細はあとで調べてみよう。
神社関係が多いのは、集落の中の聖なる場所として、湧水の出水地などが選ばれるためであろう。水を扱うルールも厳格なものとなるだろう。
ちなみに、利根川の北の群馬県側では、渡良瀬川が形成した大間々扇状地があり、大規模な新田湧水群がある。
「新田環境みらいの会」のホームページ
http://www7a.biglobe.ne.jp/?NITTA-MIRAI/yuusui/MAP2.pdf
次に、別府沼から西へ、湧水群をたどってみよう。《つづく》