未分類」カテゴリーアーカイブ

郷土史のために –関東の村の場合–

小さな村にも歴史はある。
という書き出しで、半ページほどの文章を保存しておいたが、見つからない。
小さな村にとっては、有名人が訪れたとか、通り過ぎたというだけで、一つの事件ではあるのだろうが、それが地域の歴史だろうか。都から郡司や役人が派遣されたというだけでも同様だろう。
そこでいろいろ考えてみるわけだが、小さな村で何をどう書けば歴史になるのかは難しい。ほんとうにゼロから始めるとなると、難しいのだが、とっかかりのために、少し考えてみた。

1つには、
ゼロから始める村の歴史とは、自然地形から始めるのが自然だといえる。気象条件も同様。
そこにしかない山や川、変化に富む日本の地形の歴史は、そのまま郷土史の一部分である。
岡や台地の配置、川の流れる方向などが、地図上でよく似ている土地があれば、別のことについても、類似があるかもしれない(地名の類似については、地形も少しは似ていれば良いが、そうでなければ無理に拘らないほうが良い)。
一つの山や川などは、より広い地域に関わり、交通や流通が生まれる。

大陸の自然は大規模で、どこまで行っても均質なところが多く、地形を意味する言葉の種類は少ないらしい。その代わり人々の階級や階層が細かく区別される。日本の小さな村では、村人の区別は少なく、複雑な地形には豊かな名称があり、八百万の神々もあり、外との交流を担当する民の種類も多い。
気性条件だけでなく、四季のありかたの問題もある。

2つめ。
東日本と西日本を比較する研究書などから、東西で好対照の項目を抜き書きしてみると、関東の村でもすべてが東日本の典型例に一致するわけでもないことがわかる。一致の度合の高い低いもある。なぜそうなっているのかを考察してゆくと、見えなかったものが見えてくるかもしれない。

3つめ、
古文書などが残っていれば、取り上げるべきだが、歴史事典などは参考にならないことが多いかもしれない。江戸ブームは続いているが、ほとんど町人文化のことであり、村については、これからなのだろう。町人文化はほとんど村のハレの文化の変形なのかもしれず、それらの変形についての対照表を作ることから始めても良いかもしれない。

4つめ、
古い時代の渡来人については、次の発言が参考になるだろう。
『シンポジウム 日本像を問い直す』(小学館)より
p198 森浩一
「(前略……)考古学は、日本のどの地域にたいしても歴史の復元作業(注:地方史のこと)でかなりのお手伝いができると思うのです。…… そのなかで私がいつも不思議に思いますことに、渡来人の問題があります。昔は帰化人といっていました。…… 大人数の渡来系の人たちがいたのは事実であり、ある意味では在日の外国人です。そういう人たちはいったいその後どうなったのか。いつまで中国人であり、いつまで百済人であり、いつまで高句麗人であり、その後どうなっていったのか。…… 渡来系の人たちもいつのまにか日本流の生活をしているわけです。」
大林太良 p211
「…… 森さんのお話にも出た渡来人の問題ですが、これは武蔵国には高句麗系の渡来人がたくさんいたとか……とかいったことがあるわけですね。こういう渡来人がそれぞれの地域の民俗にいったいどういうかたちでつかまえることのできるような痕跡を残しているのか。こういうような問題というのはさっぱり検討されません。」

森氏のいう「いつのまにか日本流の生活」ということについては、万葉集に秦氏の子孫と思われる人たちが短歌があり、相聞歌はごく普通の歌、つまり大陸にはほとんどない(朝鮮半島の古い時代には残存していたという説もあるが)招婿婚を想わせる男が通うときの歌が多い。
「地域の民俗」……一つには女性の存在が見えないといけない。渡来系女性の活躍はあったのか。子供についても同様だが、既に(どこで学んだか)日本語を使う子供たちである。
(以下、追記の予定)

『百姓の一筆』を読んで


現代教養文庫の一冊『百姓の一筆』(田中佳宏著)は、旧武蔵国幡羅郡エリア(埼玉県妻沼町)の人の本では、最も面白い本ではないかと思う。著者は、歌人でもあり、農業を営んでおられ、農業問題、食糧問題を考えさせられる本である。

1か月ほど前に読んで、いま目次をぱらぱらと見ると、
「ダイコンは工業では作れない」という見出しの章。これはつまり、農作物というのは、いくら合理化を進めても、米なら(普通は)年1回しか獲れない。田の面積あたりの収穫量も、格段の進歩があるわけではない。工業製品と同列に扱うことは論理の倒錯であるということで、そんな内容だったと思う。
「ミミズが生きていけない土」 これは、増産のための化学肥料や農薬が、土を変えてしまっているということらしい。増産しなければ、農家の暮らしも、食料を購入する他の国民の生活も現状では成り立たないのではあるが。
そのほかの見出しについては、短かすぎて内容を思い出せるものが少ないのが残念である。新聞連載のときの制約だったのかもしれない。

農業がどれだけ重要なことかを、政治家は理解できているのだろうか。
食料自給率の問題も、当時から大きな問題だった。

当時というのは本の執筆当時のことで、1985~88年、日本人の多くがバブル経済に浮かれていた時代である。坪40万円の土地でダイコンを作っていたのは大都市圏のことだが、当時は、地方でも市街化区域なら坪20万円くらいだった。今は1/3以下に値下がりした。今後は更に値下がりするに違いない。市街化でなければ更に安い。
市街化以前は、坪1万円で1反300万円、これは江戸時代に1反10両だった例もあるので、10両=300万円とすれば、江戸時代から大きな変動がなかったといえる。しかし農業をやめて田畑を手放す人が増えた今は、1反50万円、坪で2000円以下になっているらしい。そんなに安いのなら家庭菜園のために買おうかと思う人もあるだろうが、農家でなければ買えない。おそらく今は外国企業が食指を伸ばしているに違いない。

食料は、欧米先進国では戦略物資の一つとしてとらえているようだ。
明治以来、追いつけ追い越せで効率優先でやって来た日本だが、真似たのは上辺だけで、そうした考え方には及びもつかない。
かつての日本では米は貨幣に準じるものだった。今は、輸出産業のために、外貨の調整が必要なときに、農作物の輸入を増やすというのも、農作物を貨幣とみなしているわけで、昔と同じだといえなくもない。しかし昔の貨幣は金(きん)そのものだったが、今は投資や賭け事のチップのようなものになってしまっているようだ。

村の面積の測り方

ここでいう村とは、今の大字のことだが、その大まかな面積を測るには、地図にマス目を描いて、マスの数を数えるしかないだろう。

最初に、地図を用意する。
Google Mapで大字名を検索すると、地図上に赤い線で境界が表示されるので、ちょうど良い。これを大きく表示し、画像キャプチャ機能で、画像ファイルに保存する。(江戸末期を想定して境界を若干修正)。
次に、地図画像の右下端の100メートルのスケールの長さを見ると、55ピクセルなので、50ピクセルになるように画像を縮小する。(地図画像を縦1100ピクセル(2000m相当)にトリミングし、それを縦1000ピクセルに縮小すると、目的に適う画像サイズになる)。
次に、1マスが50ピクセルの方眼のマス目画像を作り、地図に重ねる。1マスが1ヘクタールになる。
(面積をより正確に測るためには、1マスを小さく、例えば5ピクセルにすると良いかもしれない)

次に、マスの数を数える
1) 境界の内側に収まるマスを数える。
 5マス連続×40 = 200
 その他のマス = 23  計223。
2) 境界を含まない外側のマスを消し、
 境界ライン上のマスを数えると、84。 その半分の42をとる。(画像参照)

合計概算 223 + 42 = 265 ヘクタール。およその数字だが、265町歩である。

さて、江戸時代のある文書から、村の田畑の面積を書き出してみると、
 田  18町 16歩
 畑 119町 6反2畝余
田畑合計、137町6反余。四捨五入で、138町歩。
さきほどの265町からこれを差し引くと、127町余、これが田畑以外の土地になる。

田畑の割合いは、全体の約52パーセントにあたるが、それでは少なすぎるだろう。
田畑の測量では「延び」があるので、実際は60パーセントを越えるだろうし、「竪八横九」の通りとすると70パーセントくらいになる。

田畑以外には、屋敷地、山林、除地、道路、土手を含む川や堀、墓地などがある。

(次は、使用したマス目画像。透過型のGIF)

日本煉瓦製造工場と小山橋

明治中期に、埼玉県幡羅郡新井村(現深谷市新井)と榛沢郡上敷免村(現深谷市上敷免)の境界付近、小山川の南に、日本煉瓦製造株式会社の工場ができ、明治21年に創業を開始(事務所は上敷免)。東京駅の煉瓦はここで作って運ばれたという。

写真は、後に小山川に作られた小山橋の開橋式の模様で、川の北岸から南の煉瓦工場の煙突が見える。
右の地図は、昭和30年代のもの。深谷駅から日本煉瓦会社まで、鉄道(日本煉瓦専用線、通称新井線)が通っていた。図の最上部に「小山橋」の記載が見える。

『楡影譚』の開始

平成25年(2013)の春から秋にかけて書いた「武州幡羅郡原郷村の歴史」
http://nireyama.main.jp/kyodo/harago.htm
の続編、ないし本格的な再構成と展開のため、
この『楡影譚 –幡羅郷土史ブログ』を開始いたします。
幡羅地区(旧幡羅郷)、旧幡羅郡、埼玉県北地域、利根川流域など、話題を少し広げることもあります。