『北武蔵の地域形成―水と地形が織りなす歴史像―』という本

『北武蔵の地域形成』–水と地形が織なす歴史像–
地方史研究評議会編 雄山閣 2015 \6800

偶然にBook_Offという店で(格安で)入手。
北武蔵、主として熊谷市と行田市の範囲、その周辺の少しを扱っている。3部構成、13編の論文。
いくつか読んで見た。

Ⅰ 荒川利根川と地域拠点
「古代河川交通と森林開発」
律令制下の時代、郡家の建物にヒノキが多数使われるが、自生のヒノキは標高500メートル以上の山地にしか見られないことから、用材は運搬されたものだろうという話。
榛沢郡家跡から、運河らしき堀の跡が発見されている。用材は秩父北部の山地から、身馴川(小山川)を下って、どこかで運河へ入り、榛沢郡家まで運ばれたであろうと。
「藤原宮・泉官衙遺跡・徳丹城などで、建設資材搬入用と考えられる運河が発見されている」(25p)とかで、まっすぐ直線的に造られた運河も多いらしい。藤原宮の運河といえば、2008年に新聞記事について書いたことがある。→ 藤原宮の運河
榛沢郡以外の郡家、幡羅郡などでも、同様の方法で材木が運ばれたと推定するしかないが、その経路については、想定できるだけのじゅうぶんなデータがないのだろう。
ちなみに、近世の丈方川が、皿沼城の南から東方城の北まで、ほぼ一直線であるのは、築城時の資材運搬用に変造された可能性があるのではと、かねがね思っていたのだが。
また現代のように金さえ払えば材木は手に入ると思ったら大間違いで、厳格に地元ルールに従うのは当然として、樹霊をどう扱ったのかは、すぐにはわからないだろう。

Ⅱ 湧き水と生産生業
「北武蔵野酒造業と関東上酒試造」
Ⅲ 領域意識の形成と展開
「近世後期、熊谷地域における改革組合村」
下奈良村の名主吉田家の事業や公儀への協力を中心とした話。Ⅲのうちの「改革組合村」を先に読んだら、豪農吉田家の収入源について、織物の売買や金貸業などしか書かれず、不審に思ったが、Ⅱのほうを読むと、大規模な酒造や酒販売を営んでいたようである。
幡羅郡では、今の深谷市の範囲では畑作地帯が多いのだが、熊谷市方面となると、広大な田園地帯が広がり、石高1500石以上の大きな村々が多数隣り合って連続し、多数の豪農たちがあったろうことが想像される。しかしこの地域は、石高に比較して鎮守社が小規模である村が目だつのは、何か事情があるのだろうか。
また、豪農というより、既に近代的な産業経営の時代になっているようなので、近代であるなら福祉方面の取組みへの照射が必須だろう。

Ⅱのなかで
「近世荒川扇状地の河川と湧水について –忍領の事例を中心に–」
「河川」については、今の熊谷市の荒川北岸一帯(荒川新扇状地)には、放射状に小河川(星川など)が多くあり、荒川が幾度も流れを変えてきた名残川であろうという話。後世の成田用水などは、古い名残川の跡を利用している部分が多くあるそうだ。
ちなみに、荒川旧扇状地とは、三尻、別府、幡羅、あるいは榛沢郡など、低地との高低差がはっきり確認できる場所がある地帯をいうようだ。幡羅(原)とは高低差のある地形に由来する名称であろう。榛沢郡では「岡」と言ったようだ。
「湧水」については、江戸時代の文献からピックアップした一覧表が掲載されている。深谷市は原郷の一例が載り、全21例のリストは少ないかもしれないが、対象の文献は新編埼玉県史や新編武蔵風土記稿など活字化されたものが主であり、村々の文書には未着手のためなのだろう。
村人たちによる湧水の管理方法についての研究も書かれる。
近世文書における湧水を意味する語は、多数あるとのことで、たとえば
  「出水、湧水出水、湧出水、湧出する水、湧水、出泉、清泉、清水」(同書)。
 せんだって「大里郡神社誌」を調べたときは、「出水」は探さなかったが、今見たら用例はなかった。調べたときは電子データがあるので、「湧」の1字を丹念に探したり、「池」「沼」「泉」などを見つけては前後を読み入った。記事にはしなかったが、小字名にそれらしいものがいくつかあり、某末社の「清水神社」なども気になる。ともあれ、水の湧く場所は聖地と見なされ、神域となっていったところは多い。
この「河川と湧水について」の論は、当ブログと関心領域が重なり、興味深いので、あとで再読してみよう。

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