『百姓の一筆』を読んで


現代教養文庫の一冊『百姓の一筆』(田中佳宏著)は、旧武蔵国幡羅郡エリア(埼玉県妻沼町)の人の本では、最も面白い本ではないかと思う。著者は、歌人でもあり、農業を営んでおられ、農業問題、食糧問題を考えさせられる本である。

1か月ほど前に読んで、いま目次をぱらぱらと見ると、
「ダイコンは工業では作れない」という見出しの章。これはつまり、農作物というのは、いくら合理化を進めても、米なら(普通は)年1回しか獲れない。田の面積あたりの収穫量も、格段の進歩があるわけではない。工業製品と同列に扱うことは論理の倒錯であるということで、そんな内容だったと思う。
「ミミズが生きていけない土」 これは、増産のための化学肥料や農薬が、土を変えてしまっているということらしい。増産しなければ、農家の暮らしも、食料を購入する他の国民の生活も現状では成り立たないのではあるが。
そのほかの見出しについては、短かすぎて内容を思い出せるものが少ないのが残念である。新聞連載のときの制約だったのかもしれない。

農業がどれだけ重要なことかを、政治家は理解できているのだろうか。
食料自給率の問題も、当時から大きな問題だった。

当時というのは本の執筆当時のことで、1985~88年、日本人の多くがバブル経済に浮かれていた時代である。坪40万円の土地でダイコンを作っていたのは大都市圏のことだが、当時は、地方でも市街化区域なら坪20万円くらいだった。今は1/3以下に値下がりした。今後は更に値下がりするに違いない。市街化でなければ更に安い。
市街化以前は、坪1万円で1反300万円、これは江戸時代に1反10両だった例もあるので、10両=300万円とすれば、江戸時代から大きな変動がなかったといえる。しかし農業をやめて田畑を手放す人が増えた今は、1反50万円、坪で2000円以下になっているらしい。そんなに安いのなら家庭菜園のために買おうかと思う人もあるだろうが、農家でなければ買えない。おそらく今は外国企業が食指を伸ばしているに違いない。

食料は、欧米先進国では戦略物資の一つとしてとらえているようだ。
明治以来、追いつけ追い越せで効率優先でやって来た日本だが、真似たのは上辺だけで、そうした考え方には及びもつかない。
かつての日本では米は貨幣に準じるものだった。今は、輸出産業のために、外貨の調整が必要なときに、農作物の輸入を増やすというのも、農作物を貨幣とみなしているわけで、昔と同じだといえなくもない。しかし昔の貨幣は金(きん)そのものだったが、今は投資や賭け事のチップのようなものになってしまっているようだ。

『聞きがたり農村史』

東敏男編著『聞きがたり農村史』3冊は、良い本である。その3冊目『村の指導者とインテリたち』の中に、茨城県那珂郡の川田村での大正時代の用水についての話がある。(187p)
川田村は、津田、市毛、堀口、枝川の4字から成り、今のひたちなか市南西部。南の那珂川の対岸は水戸市中心部である。場所がわかるような地図も作ってみた。

(聞き手)—-小場江の用水のことで揉めて。
(かたり手) これがなかなか出来なかったんですね。枝川では早戸川から水を引いてたんですね。津田、堀口、市毛は水が出ますから必要なかったんですよ、用水はね。
(聞き手)—-早戸川から水を取って、あとが下に流れて枝川地内の水田に行くわけですね。途中に小場江用水が流れてますから、その下を通して枝川の水田に水引いたわけですね。
(かたり手) そのころは、枝川は小場江に入っていなかったですから。山なんか伐っちゃったから、水源もなくなってきちゃったんですね。枝川の方まで回んなくなってきちゃったんです。それで枝川が小場江に入りたいというわけで(後略)

小場江用水は、那珂川と平行して北側に作られた30km以上に及ぶ用水で、川田村の枝川と市毛・堀口の境界あたりを通る(図に書込んだが十分正確ではない)。
早戸川は北から流れて来て、津田と市毛の境を流れて、枝川の東部で那珂川に合流する(図に書込)。
地図は現在の区画であり、枝川はもっと西まで広かったようで、川田村で最も戸数が多く「勢力があった」そうで、今は一部が水戸市に編入されている。他にも区域変更があるようだ。

津田、堀口、市毛は、水が出るので用水は不要だったという。「台地」とも書かれる。那珂川の扇状地であり、湧き水が出たのだろう。田は少ないのかもしれない。那珂川に接する枝川は、水はあまり出ないのは、那珂川が削った低地だからなのだろう。開拓時代に早戸川の水を引いて利用したが、小場江用水は使わないため、水を引いた堀は立体交差になったようだ。小場江用水と早戸川も交差している。
ともかく、扇状地の地帯では、湧き水が豊富だったということが確認できる。

「枝川は小場江(用水組合)に入っていなかった」が、
「山なんか伐っちゃったから、水源もなくなって」とは、明治時代から早戸川の上流域の開発が進んだことをいうのだろう。森林の開発は、大雨のときには逆に洪水を引き起こしたものだが、日本中で同じようなことが行なわれた。
この本は、同じ時代に多くの村でもあったような出来事が詳しくよく語られている。

村の面積の測り方

ここでいう村とは、今の大字のことだが、その大まかな面積を測るには、地図にマス目を描いて、マスの数を数えるしかないだろう。

最初に、地図を用意する。
Google Mapで大字名を検索すると、地図上に赤い線で境界が表示されるので、ちょうど良い。これを大きく表示し、画像キャプチャ機能で、画像ファイルに保存する。(江戸末期を想定して境界を若干修正)。
次に、地図画像の右下端の100メートルのスケールの長さを見ると、55ピクセルなので、50ピクセルになるように画像を縮小する。(地図画像を縦1100ピクセル(2000m相当)にトリミングし、それを縦1000ピクセルに縮小すると、目的に適う画像サイズになる)。
次に、1マスが50ピクセルの方眼のマス目画像を作り、地図に重ねる。1マスが1ヘクタールになる。
(面積をより正確に測るためには、1マスを小さく、例えば5ピクセルにすると良いかもしれない)

次に、マスの数を数える
1) 境界の内側に収まるマスを数える。
 5マス連続×40 = 200
 その他のマス = 23  計223。
2) 境界を含まない外側のマスを消し、
 境界ライン上のマスを数えると、84。 その半分の42をとる。(画像参照)

合計概算 223 + 42 = 265 ヘクタール。およその数字だが、265町歩である。

さて、江戸時代のある文書から、村の田畑の面積を書き出してみると、
 田  18町 16歩
 畑 119町 6反2畝余
田畑合計、137町6反余。四捨五入で、138町歩。
さきほどの265町からこれを差し引くと、127町余、これが田畑以外の土地になる。

田畑の割合いは、全体の約52パーセントにあたるが、それでは少なすぎるだろう。
田畑の測量では「延び」があるので、実際は60パーセントを越えるだろうし、「竪八横九」の通りとすると70パーセントくらいになる。

田畑以外には、屋敷地、山林、除地、道路、土手を含む川や堀、墓地などがある。

(次は、使用したマス目画像。透過型のGIF)

郡境の話 その1

郡の境界は、自然の山脈や尾根、そして川であることが多いという話はある。

川でいえば、武蔵国の埼玉郡は、東に利根川(古利根川)を隔てて葛飾郡、、南西に荒川(元荒川)を隔てて足立郡だった。北西の幡羅郡との境は、不明である。

山脈や尾根が境界となるときは、どの尾根が基準となるのかは、時代によって違う場合がある。

埼玉県比企郡小川町の木呂子・勝呂・木部・靭負は、明治22年に比企郡竹沢村となる前は、男衾郡の村だった。
竹沢村は、ほかに兜川下流の比企郡笠原・原川の2村を含めて成立した。兜川は小川町を過ぎて槻川へ合流し、さらに都幾川~越辺川~入間川~荒川へと続く。地図で見ると、小川町自体が盆地ではあるが、旧竹沢村は、それとは別の奥まった所の小盆地のように見える。

現在の郡境は、より標高の高い尾根を基準にすることが多く、同じ川の流域は上流域まで同じ郡であるということが重視されているように見える。旧竹沢村も、それに該当し、今は全体が比企郡となっている。
しかし明治22年以前は男衾郡であった。その理由は何であろうか。

男衾郡は、今の寄居町の荒川以南と、そこから東へ続く地域であった。郡の南部は山地といえば山地だが、険しい山というほどのものはほとんどない。南西端の官ノ倉山(男衾・比企・秩父三郡の境)から西の釜伏山までは高いといえる山であるが、それ以外は、昔の人だったら気軽に越えられる山ということだろう。

航空写真で見ると、竹沢村の4地域は、昔は林業が主産業のような印象がある。木呂子・木部などに「木」の字が含まれる。それは比較的平地の多い小川町方面よりも、山地の多い北西の地域と共通性の多い文化があったのではないか。それが男衾郡に含まれた理由ではないかと思われるのである。
航空写真の赤線内が、木呂子・勝呂・木部・靭負の地域

同様のことは、官ノ倉山の南の秩父郡東秩父村でもいえそうである。東秩父村は槻川の上流域の村であり、西の秩父山地の高い山々を越えれば秩父盆地だが、盆地の外側、山脈の東側の地域である。

 郡境ではなく国境の例ではあるが、神奈川県の最北部の津久井郡(相模川の上流で相模湖があり中央高速が通っているところ)は、吉田東伍によると、もとは甲斐国であったとしている。
川の上流の地域とは、下流地域に従属するものではないということだろう。

余談になるが、
旧竹沢村の下流の笠原・原川は、どちらも「原」を含む地名である。兜川が流れて下って少し広い盆地に出たあたりである。大字としては2つとも山地まで伸びた細長い地域であるが、その平地のあたりについては、
いかにも扇状地であり「原という地形について」 で書いた通りの地形といえる。

追記「狭くなった秩父郡」

秩父郡矢納村  →児玉郡矢納村(1890・明治23)
秩父郡白鳥村 風布・金尾 →大里郡寄居町(1943・昭和18)
秩父郡吾野村  →入間郡吾野村(1921・大正10)
秩父郡名栗村  →入間郡名栗村(1921・大正10)
(男衾郡木呂子・勝呂・木部・靭負 →比企郡竹沢村(1889・明治22))

上記の通りだが、さらに時代をさかのぼると、秩父郡はさらに広かったと想定され、昔の「知々夫国」に行き着くのかもしれない。

「その2」として、平野部における郡域の移動をとりあげたいのだが

『北武蔵の地域形成―水と地形が織りなす歴史像―』という本

『北武蔵の地域形成』–水と地形が織なす歴史像–
地方史研究評議会編 雄山閣 2015 \6800

偶然にBook_Offという店で(格安で)入手。
北武蔵、主として熊谷市と行田市の範囲、その周辺の少しを扱っている。3部構成、13編の論文。
いくつか読んで見た。

Ⅰ 荒川利根川と地域拠点
「古代河川交通と森林開発」
律令制下の時代、郡家の建物にヒノキが多数使われるが、自生のヒノキは標高500メートル以上の山地にしか見られないことから、用材は運搬されたものだろうという話。
榛沢郡家跡から、運河らしき堀の跡が発見されている。用材は秩父北部の山地から、身馴川(小山川)を下って、どこかで運河へ入り、榛沢郡家まで運ばれたであろうと。
「藤原宮・泉官衙遺跡・徳丹城などで、建設資材搬入用と考えられる運河が発見されている」(25p)とかで、まっすぐ直線的に造られた運河も多いらしい。藤原宮の運河といえば、2008年に新聞記事について書いたことがある。→ 藤原宮の運河
榛沢郡以外の郡家、幡羅郡などでも、同様の方法で材木が運ばれたと推定するしかないが、その経路については、想定できるだけのじゅうぶんなデータがないのだろう。
ちなみに、近世の丈方川が、皿沼城の南から東方城の北まで、ほぼ一直線であるのは、築城時の資材運搬用に変造された可能性があるのではと、かねがね思っていたのだが。
また現代のように金さえ払えば材木は手に入ると思ったら大間違いで、厳格に地元ルールに従うのは当然として、樹霊をどう扱ったのかは、すぐにはわからないだろう。

Ⅱ 湧き水と生産生業
「北武蔵野酒造業と関東上酒試造」
Ⅲ 領域意識の形成と展開
「近世後期、熊谷地域における改革組合村」
下奈良村の名主吉田家の事業や公儀への協力を中心とした話。Ⅲのうちの「改革組合村」を先に読んだら、豪農吉田家の収入源について、織物の売買や金貸業などしか書かれず、不審に思ったが、Ⅱのほうを読むと、大規模な酒造や酒販売を営んでいたようである。
幡羅郡では、今の深谷市の範囲では畑作地帯が多いのだが、熊谷市方面となると、広大な田園地帯が広がり、石高1500石以上の大きな村々が多数隣り合って連続し、多数の豪農たちがあったろうことが想像される。しかしこの地域は、石高に比較して鎮守社が小規模である村が目だつのは、何か事情があるのだろうか。
また、豪農というより、既に近代的な産業経営の時代になっているようなので、近代であるなら福祉方面の取組みへの照射が必須だろう。

Ⅱのなかで
「近世荒川扇状地の河川と湧水について –忍領の事例を中心に–」
「河川」については、今の熊谷市の荒川北岸一帯(荒川新扇状地)には、放射状に小河川(星川など)が多くあり、荒川が幾度も流れを変えてきた名残川であろうという話。後世の成田用水などは、古い名残川の跡を利用している部分が多くあるそうだ。
ちなみに、荒川旧扇状地とは、三尻、別府、幡羅、あるいは榛沢郡など、低地との高低差がはっきり確認できる場所がある地帯をいうようだ。幡羅(原)とは高低差のある地形に由来する名称であろう。榛沢郡では「岡」と言ったようだ。
「湧水」については、江戸時代の文献からピックアップした一覧表が掲載されている。深谷市は原郷の一例が載り、全21例のリストは少ないかもしれないが、対象の文献は新編埼玉県史や新編武蔵風土記稿など活字化されたものが主であり、村々の文書には未着手のためなのだろう。
村人たちによる湧水の管理方法についての研究も書かれる。
近世文書における湧水を意味する語は、多数あるとのことで、たとえば
  「出水、湧水出水、湧出水、湧出する水、湧水、出泉、清泉、清水」(同書)。
 せんだって「大里郡神社誌」を調べたときは、「出水」は探さなかったが、今見たら用例はなかった。調べたときは電子データがあるので、「湧」の1字を丹念に探したり、「池」「沼」「泉」などを見つけては前後を読み入った。記事にはしなかったが、小字名にそれらしいものがいくつかあり、某末社の「清水神社」なども気になる。ともあれ、水の湧く場所は聖地と見なされ、神域となっていったところは多い。
この「河川と湧水について」の論は、当ブログと関心領域が重なり、興味深いので、あとで再読してみよう。

原という地形について

柳田國男は『地名の研究』で「野」という地名について、次のようにいう。

山・岡・谷・沢・野・原などという語を下に持った地名は、たいたいに皆開発の以前からあったものと見てよかろうが、その中でも実例がことに多く、意味に著しい変遷があったらしいのは「野」という言葉であった。
これは漢語の野という字を宛てた結果、今では平板なる低地のようにも解せられているけれども、「ノ」は本来は支那にはやや珍しい地形で、実は訳字の選定のむつかしかるべき語であった。
白山の山彙を取り繰らした飛騨・越前の大野郡、美濃と加賀との旧大野郡、さては大分県の大野郡という地名を見ても察せられるように、また花合せ・骨牌の八月をノという人があるように、元は野(ノ)というのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。
火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国でないと、見ることのできない奇抜な地形であり、これを制御して村を興し家を立てたのもまた一つのわが社会の特長であった。
野口、入野という類の大小の地名が、山深い高地にあるのもそのためで、これを現在の野の意味で解こうとすると不可解になるのである。

説得力のある説明である。
野とは、山の裾野や緩やかな丘陵など、地殻変動の大きく雨の多い日本に特有の地形であるという。
漢字の「野」は、漢字源によると、

予は、□印の物を横に引きずらしたさまを示し、のびる意を含む。野は「里+音符予」で、横にのびた広い田畑、のはらのこと。

野は、ただ広がっている土地というのであって、未開の「原野」に近い意味なのであろう。漢語で「野生」「野獣」「野卑」などがある。「野(や)に下る」というが、この野をノと読んでは感じがでない。

しかし、である。「原」についても同様に詳しく述べてもらいたかった。(電子本版で検索したが、野についてのような説明はないようである)。
藤原(ふぢわら、ふぢはら)などの地名が、「山深い高地にあるのもそのため」である、と言い切れるだけの説明がほしい。
しかしそれは、われわれ自身でやらねばならない。
そこで、まづ「漢字源」を見てみよう。

「厂(がけ)+泉(いずみ)」で、岩石の間のまるい穴から水がわく泉のこと。源の原字。水源であるから「もと」の意を派生する。
広い野原を意味するのは、原隰(げんしゅう)(泉の出る地)の意から。
また、きまじめを意味するのは、元(まるい頭)・頑(まるい頭→融通のきかない頭)などに当てた仮借字である。

水源という意味では、藤原滝原がこれにあたる。
「隰」は、「さわ。低くてしめった土地。低湿の地」とあり、葦原どがあたる。
その限りでは、和語のハラの元の意味は、漢字の「原」に近かったことになる。

広辞苑では、「原」とは「平らで広い土地。特に、耕作しない平地。野原。原野。万二(199)『埴安の御門の原に』」とある。
引用例の万葉集巻二の歌の「埴安」といえば、埴安の池という広大な池があったところである。この原が池の水源のことかは不明。御門とは高市皇子の住んだ宮のことらしい。
この歌は、柿本人麻呂が作った高市皇子のための挽歌であるが、同じ歌に他に2つの「原」が出てくる。
飛鳥の真神の原に、久方の天つ御門を畏くも定め給ひて」は、天武天皇の飛鳥浄御原宮のこと。
わざみが原の仮宮」は、壬申の乱のとき、美濃国での天武天皇の仮宮。
天皇の宮の名前には、他に、橿原宮、軽の堺原宮、飛鳥川原宮、藤原宮など、「原」の文字はよく使われる。その場所を賛美しての名なのだろう。高天原の時代からなのだらうか。こうしてみると、広辞苑の「平らで広い土地。特に、耕作しない平地。野原。原野」のどれにも当らないような気がする。

※ ちなみに、他に、天皇の宮の名で多いのは、穴(片塩の浮穴宮、志賀の高穴穂の宮、穴門の豊浦の宮、石上の穴穂宮)、岡(葛城の高岡宮、軽の境岡宮、飛鳥岡本宮、長岡宮)がある。

そこで『古事記』を見てみる。

最初は「高天原」。解釈は難しい。

次に殺された火の神・迦具土神の体から八柱の神が生れ、その一柱に原山津見神。
 つまり頭に正鹿山津見神。胸に、淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)。腹に、奥山津見神。陰に、闇山津見神。この闇山津見神は、渓谷の神といわれる。
 左の手に、志芸山津見神。右の手に、羽山津見神。
 左の足に、原山津見神。右の足に、戸山津見神。
語義不明の名前も多いが、山や谷、その裾野のあたりまでの地形からの名のようであり、火山活動によって成った山のそれぞれの部分の神々のようでもある。
原山津見神は左足。原とは、山の裾のどこかをいうのだろう。
右手の羽山津見神は、山の端、あるいは尾根のあたりとすると、足は陰(谷)とつながる部分なので、尾根と尾根の間の土地、蛙の足でいうと水掻きに相当する部分ということになるだろうか。ここは扇状地であることが多い。谷から下る川によって原は左右に分割され、原山津見神と戸山津見神。群馬県の至仏山の東が戸倉、西が藤原であるのは偶然か(山で左右に分れる例だが)。

次に「葦原の中つ国」の「葦原」。これも難しい。

次に「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきはら)」で伊邪那伎神が、禊ぎをする。「阿波岐原」は、清い水が豊富な場所に違いない。やはり水源地であろう。それほど高くない滝があり、滝の水を浴びての禊ぎなのかもしれないが、後世では介添の巫女もあった。

次に、三貴紳の誕生。天照大神は「高天原を知らせ」、月読命は「夜の食国を知らせ」、須佐之男命は「海原を知らせ」とある。
「海原」とは、比喩的表現なのだろうか、それとも原にはもともと「海原」にふさわしい意味があるのだろうか。原は、夜の食国の「国」と同等のようにもとれる。

次に「天の安の河原」に八百万の神が集う。
河原とは、現在では、川の岸辺のことで、増水すれば水に覆われる。海原は、海辺のことではなく、常に広い海原のことである。河原の原と海原の原は同じではないのではないか。

大野晋『日本語の形成』によると、タミル語では、海を意味する paraval という言葉があり、天を意味する param もあり、原を意味する para もあり、それぞれ別の語とすれば日本語も同様なのかもしれない。さらに、parampu(台地)という言葉について「滝のある山の下の丘の斜面」というタミル語の成句らしき用例も載る。
同書では、日本語の原の意味としては次の用例を載せる。

「高平をといふ 和名波良」(和名抄)
「車をむかひの山の前なるはらにやりて」(源氏 蜻蛉)

この源氏物語の「はら」は、原山津見神の生れたあたりに近い。和名抄の「高平」もほぼ同様で台地の意味だろうか。野との違いは、野が山裾の傾斜面、原は谷から続く川による堆積による平地ということかも。

4代懿徳天皇の「軽の境岡宮」と8代孝元天皇の「軽の境原宮」の場所がはっきりすれば、岡と原の違いもわかるかもしれない。
『日本国語大辞典』については「は」の項を含む1冊が見つからず、見つけ次第、追記する予定。(辞典を確認してみたが、原の語義の説明は小辞典並みの短いものであり、この辞典の悪い所である歴代諸氏による荒唐無稽の語源解釈を延々と掲載。この問題については全く役に立たない)

『大里郡神社誌』における湧き水の記録

昭和5年発行『埼玉県大里郡神社誌』に記載された湧き水に関連する部分、その可能性のある部分などを抜粋。湧水でないものも含まれるだろう。市町村名は現行のもの。
大里郡とは、明治29年(1896)に旧大里・幡羅・榛沢・男衾の4郡の合併により成立。以下では旧幡羅・榛沢郡域で多い。

熊谷市上之 上之村神社

氏子区域の中央部に池あり。広さ二二〇坪。これは村内字琵琶湖にありしも、接続の関係上、隣地主が埋立て、今は小部分の池となれり。
摂社大雷神社は、安政年間より旧比企・児玉・男衾・榛沢の各郡の崇敬者より雨乞の祈祷を申出づるもの多く、御手洗池の水を借り受け、帰村して祈願を為す時は、日ならずして雷雨ありしと、今なほ報賽 頗る多し。

熊谷市宮町 高城神社

寛文10年庚戌の始めより里人のいひけるは、社の傍に小樽の木の年古りて、高さは八丈五尺、周囲は一丈五尺、枝は十四、五間もはびこれるものあり。この樹、地をさること三尺ばかりの処に空なる穴あり、口は七寸ばかりにして内はいと広く、洞穴の如し。その中より清水 湧き出で、絶ゆることなし。若しこの水を用ひて諸々の病を治すれば、必ず感応の効を得んと、この事いつしか近国に聞えければ、人々 日々集り参りて御水を戴けるに、果して諸病に効験ありき。

熊谷市 佐谷田神社 

御神井 石畳中に噴出の井 一ヶ所

熊谷市(旧妻沼町)日向字八幡間掘の内 長井神社
同 上須戸 八幡大神社
 龍海については長井神社の項に詳しいが、以下は上須戸の項より抜粋。

日向、上須戸の間に四町四方の池あり、これを龍海といふ。常に大蛇棲みて村民を悩ます。土豪 島田大五郎道竿(中略)一日西方に向ひて南無弓矢八幡を念願し、村民に令して渠を掘り、その水を利根川に落(今その堀を道竿堀といふ)さしむ。(中略)龍海の中央には弁財天を安置して、龍蛇の霊を慰むといふ。合祀社 厳島神社これなり。時に天喜5年8月15日の事なりきといふ。

熊谷市(旧妻沼町)弁財 字沼上 厳島神社

神社の背後に弁天沼と称する古沼あり。往昔は二町余の面積を有し、深さも十数尋に及べりといふ。然れどもその地 字の共有なるが故、輓近埋立て畑となし、現在僅に3畝余歩の池沼を存するのみ。

熊谷市(旧妻沼町)葛和田 神明社

御神井 一ヶ所

旧妻沼町妻沼 大我井神社の項

若宮八幡宮湧泉之記
夫原若宮八幡宮者、建久年中、右大将源頼朝卿、従武蔵野下野那須野原巡行之時、老杉之下停、於駕勝景有詠覧之地郷閭崇尊之、則造営一社、恭奉勧請石清水大神宮。
(中略)壬戌之秋八月 東国水嵐烈水溢前波後浪渾々?々如流如奔往々遭于険者衆也 井河濁不食竟絶食者数日 実以庶民之憂也、
雖然非天命 靡常社傍自淤泥中清泉涓々而湧出、郷人奇之不勝歎躍用汲用味則得免飢渇 今嗚呼赫今壮分 石清水之霊験 輝光厥福今願厥禎祥也(以下略)

熊谷市奈良 奈良神社

神社より東北二~三町にして、往昔 湧泉の旧蹟あり。現在 水田となりて神社の所有なり。この地は「和銅四年神社之中忽有湧泉自然奔出漑田六百余町」(三代実録)とある旧跡なりと言ひ伝ふ。中古まで 沼沢の地たりしを、弘化年中、時の名主 野中彦兵衛が地頭 曲淵重左衛門殿に乞ひ、免許を得て田となせりと、その書類 今なほ 同家に保存す。現にその傍の小字を沼ノ上といふを見ても、涌泉の事跡 以て証すべし。
御手洗は、和銅の昔 涌泉の地にして、今その旧蹟を表記せる碑石を設く。

熊谷市代 八幡神社

御神井 一箇所

熊谷市 玉井大神社 

僧某、東国に下り当地に滞在中、両眼を病み、偶々霊夢に感じ、里人を鼓舞して井を掘らせしめ、その水を以て眼を洗ひしに、忽ち癒ゆ。乃ち傍に井の神を祭りて、井殿明神と称す。里名の玉の井、これより起れりといふ。後、社名を改めて玉井大神社と称す。

熊谷市西別府 湯殿神社

当社御手洗に湧出する清泉は、透麗の気 人身の邪熱を払ひ、諸病の流行を防止する効ありとなし、往昔より春夏の候、参詣者のこれを汲むもの多し。而してその下流は、田園潅漑するもの幾百町歩、人民その沢に霑ふこと甚だ多しと伝へいふ。

熊谷市三尻 八幡神社

沼田一九一五番 溜井 反別1反1歩

深谷市上増田 諏訪山神社

古は現社殿の後方に広き「諏訪森」の森厳なるを有し、「諏訪池」の大なる碧水を漲らせて、太古そのままなる神域なりきといふ。

深谷市東方 熊野大神社

基本財産(不動産) 池沼 1町1反6畝18歩

深谷市原郷 楡山神社 記載無し。編集主幹のため頁数を抑制したか。

深谷市上柴町(柴崎) 諏訪神社

神社の付近に穴の口径丈余に及べる古井戸穿ちありて、当時深谷城の飲料水に供せられしと伝へられ

深谷市上野台 八幡神社 湧水による池あり。次の「神井」のことかは不明。

神井 覆屋付 大正15年

深谷市西島 瀧宮神社 

神池 3反3畝歩を有す。

深谷市下手計 鹿島神社 

境内に大欅あり。周囲約三十五尺、中心空洞にして底に井あり。(中略)神霊の加護し給ふ神井の水なればとて、これを汲みて多年の宿痾病患の者に与へ、或いは彼神水にて身を清め、鹿島の神に諸心願を罩め希代の霊験を蒙りし者 往々ありければ、打寄りて浴舎を設け、諸人の助にとて浴湯を始めしに、神験著しく老若群集せしが、別当職の老死後 暫く休止し居たるを、文政の末年再興し、明治の初年まで経営せられしも、後嗣の幼かりし為めまたまた廃されてそのままとなり了れり。

深谷市(旧岡部町)普済寺 字菅原 菅原神社

当時境内に清泉湧出して、社の以東数ヶ村の用水の起原たるを以て、水利関係の数ヶ村より毎年幣帛料を奉納して、特に崇敬せり。

深谷市(旧岡部町)山河 伊奈利神社

社領山林に三日月池と称する所あり。これ当社を離る約八町の西南方にて、鎌倉幕府時代、前橋より鎌倉に到る通路に沿ふ。古老の伝説に依るに、元 清水滾々として湧出し、暑中旅人の渇を慰むるに適し、もと不思議にも三日月これに映りしが、一馬丁の馬鮭を沾してより清澄掬すべき霊水も俄然沽渇せりといふ。
社領 字西谷  山林   4畝24歩  三日月池所在地

深谷市(旧岡部町)山崎 天神社

弁天社 往古より別当寺地蔵院の管理せるものにて、今なほ3月18日大護摩修行し、当日年々大神楽、芝居、飾物等の余興ありて、参拝する者多し。御霊像安置 承和元年弘法大師御作とあり。御池1反8畝の中に社地1畝18歩あり

深谷市(旧岡部町)本郷 藤田神社

舞楽、獅子舞行事の相伝あり。古老の口碑に、中古はこの行事 最も盛に行はれて、その祭の日は社頭を始め氏子区域中を舞ひめぐり、終りに本村字象殿といふ山中のに舞込といふ。舞楽を行ひつつ舞行くときは必ず急雨ありて、近隣の農作物を潤し、不作を免れしといふ。付近この祭を本郷の雨乞祭と俗称し、年々供奉者は増加して、盛大なる祭祀の年中行事なり。

深谷市(旧花園町)黒田 豊栄神社

元社地付近に御手洗の池あり。四時清水湧出し、池中に魚類多く棲息すれども、これを捕食すればその一家断絶すべしと称し、現今に至るも里民のこれを捕獲するものなし。

深谷市(旧川本町)瀬山 字東中井 八幡神社

神域前方の泥池に莚を浸したるを持ち来りてかぶせ廻る。前記 当餅の争奪より起れる奇習にして、瀬山の莚かぶせと称ひ、近郷に名高く参観者極めて多し。近時非文明の行事なりとして廃止せらる。

寄居町用土 字藤田 貴船神社

神社の西方に俗に御池と称する池あり、中央小高き島上に弁天社を祭る。祈雨祭の時は、この池の水を汲みて村民一同にて祭を行ふを例とす。また他より御水を借り来りし時は、その水を池に入れて祈雨祭を行ふ。

寄居町 宗像神社

末社 水波能女神社は、境内の真名池の水神を祀ると称し、末社となる。

寄居町赤浜 出雲乃伊波比神社

明和8年、稀有なる旱魃あり。本村各戸の井水、悉く凋れて飲用水 欠乏したりし時に当り、宮井及び神木の根元より▲冷水滾々として湧出し、本村は勿論、隣村 富田よりも、牛馬の飲用水より家内の飲み水に至るまで使用したりといふ。
(古文書)「西は溜沼より厳を限り」

熊谷市(旧大里町)吉見神社 

神社を距る東南凡そ六丁、一の霊井水あり。大旱魃と雖も渇水することなし。文治の昔、源義経の従士 亀井六郎、この地に来り俄に疾病す。乃ち当神社に丹精を凝し祈請を篭め、その霊井水を掬飲せしに、忽ちにして病癒ゆるに至る。これ全く神水の致す所と為し、大に歓喜し、篤く報賽して出発すと伝ふ。爾来この霊井を称して亀井と称へ、その地区を亀井区といふ。今なほ現存す。
2反3畝歩 沼地を存せし

熊谷市(旧江南町)千代 飯玉神社 

社前に古池あり、里唱 御池といふ。池中に棲める魚類凡て片眼なりと称せらる。

幡羅郷の湧水群

武蔵国幡羅郡の幡羅郷と比定される地域の湧水群をたどってみよう。
図は、埼玉県の深谷市と熊谷市の境界付近の、福川と別府沼などを含めた現在の地図である(台地部分は黄緑色)。(Yahoo地図)

 熊谷市 西別府
東の江袋沼は、別府沼の水を溜めておくために作られたものと諸書にある沼。その南西の先の細長い沼が、別府沼である。別府沼の西は、神社(湯殿神社)の境内の内まで連続し、境内の部分は「御手洗(みたらし)の池」と呼ばれ、昭和のころまでは湧水があったという。地図上の台地がU字形にえぐれた部分の中心が出水点であり、「滝下」という地名もあり、旧神職家は滝口氏である。その南西、深谷市東方にかけて幡羅郡家跡が発掘された。沼の大部分は今は公園として整備されている。

細長い沼の、南側は台地上に民家が立ち並び、北側の低地が水田地帯である。台地と低地との高低差が比較的大きく、崖のわきからの出水が多かったというのが、幡羅(ハラ)郷の地形の特徴である。漢字の「原」の意味は、「厂(がけ)+泉(いずみ)」であり、文字の通りの地形である。大和言葉でも「まほら」などから説明できるだろう。

次の地図は昭和初期のもので、上図と同じ範囲のもの。東から、西別府、東方、原郷の大字名の記載もある。
福川の川筋にいくつか違いが見られるが、詳細は省く。江袋沼から西では「城北川」の名であった。江戸時代は「丈方川」の名が一般的でもあった。

 深谷市 東方
下の地図の「東方」の文字のあたりに、細長い沼があるのがわかる。
この沼は、江戸時代の絵図面にも描かれてある。南西の台地上に熊野大神社があるが、昭和5年の『大里郡神社誌』には「熊野大神社 基本財産、池沼 一町一反六畝十八歩」とある。今は、地元の人の記憶にも「あったということは聞いている」と言う程度で、記憶は薄れている。

上図の青枠の範囲の拡大が、次の地図である。小字の名が細かく記載されている。
字名「城下」のあたりが、沼の位置である。しかし上の地図の沼は、「城下」の範囲より東西に長く、特に沼の西端は、西の原郷の「根岸沼」に達しているように見える。「城下」の東北には「沼辺」という広い地域がある。「沼辺」の南の高い台地上に「東方城」があった。(城下の東の先にも、「川足下」「寺下」という台地下の細長い地帯があり、細長い沼だった可能性もある。 )

「欠下」という地名があるが、崖はもとは濁らずにカケと言ったと国語辞書にある通り、崖下の意味である。「欠下」の上が「欠下台」である。
現在の東方北部は広い田園地帯になっているが、江戸時代の絵図面では畑が多く点在し(社地もあり)、そのために小字名が細かく区分されている。興味深い地名が多いが、これらの点在する小台地からの出水も、ありえない話ではないだろう。

 深谷市 原郷
次は、文政6年の原郷村の絵図面の一部である。北に丈方川が描かれ、中央から西と南は台地地帯である。台地の縁に沿って水路が描かれる。
地図の東部の、丈方川と水路(堀)に囲まれる一帯が、小字の「根岸沼」である。
水路は、根岸沼の南で太さや広さを増し、沼と呼んでよいような状態である。東側でも幅を増しているが、東方の「城下」の沼に続くものかもしれない。西側には、2ヶ所、水色の水脈らしきものが描かれ、「出水落込五尺」「出水落込四尺」という文字が見える。崖または急斜面の途中、水面から五尺ないし四尺の高さから、出水があるという意味だろう。
北側では、丈方川に平行して細い堀があり、「落込五尺」と書かれる所もあり、その西方に文字はないが水脈らしきものが描かれる。図のこの部分だけでも4ヶ所の出水が確認できる。この付近の台地上が「木之本古墳群」の中心地帯である。
川と平行する細い堀は、西北方向にも楡山神社の先まで延々として続き、多くの出水があった。崖からではなく、台地上の集落内(八日市)からの湧水もあった。湧水の意味の「出水」は江戸時代は「ですい」と言ったかしい。

別府沼から原郷までの台地の縁をたどってきて、台地の縁の沼がどのように形成されたかがわかると思う。
もとは台地の縁の崖から、多数の出水があった。小さな渕ができ、隣の渕とつながって横へ横へと延びて行く。出水の多いところでは沼を形成し、そこへ脇から一続きとなって流れてきた水も溜まる。水は溢れて、近くの低地を流れる川へと流れ出す。

江戸時代の西別府村は、1200石を越える田があり、用水は奈良堰(荒川用水)を利用とある。東方村は田は500石で、用水は同様。湧き水の利用は不明だが、他村に羨ましがられるので記録は残りにくいようだ。原郷村は田は 120石ほど。「用水は備前渠用水より引水」と書かれることもあるが、上流の村の悪水(排水)が丈方川に入り、それを使うだけなので難儀していると書く文書もあり、また備前渠用水組合に加入していない。
原郷村から西の村は、田の面積はあまり多くなく、隣の榛沢郡西島村の用水もよくわからない。普済寺村では820石の田があるが、湧水が多く二つの池を利用とある。岡下村や岡村は小山川からの西田用水などである。

渋沢、藤原(地名の話)

渋沢という苗字(名字)は、群馬県南部と埼玉県北部に多く長野県にもあるという。
埼玉県の有名人では、渋沢栄一。その一族は、江戸時代に入り上州の大館あたりから移って来たであろうことが、一族の渋沢仁山の書の落款に「大舘氏徴庵」(*)とあることから推定されつつある。彼らは榛沢郡内だが、幡羅郡内にも渋沢姓は多い。

群馬県の尾瀬地方に、至仏山があり渋沢という川が流れていると聞いたので、至仏山はシブツヤマと読むのか、シブッサワが縮まればシブサワになるだろうとか、至仏とはアイヌ語由来の地名の可能性ありの印象を受け、気になっていた。
知里真志保『地名アイヌ語小辞典』を開くと、B音はないのでP音で「シプ……」のあたりを見ると
「si-pet しぺッ 本流; 本流の水上」(みなかみ)
とある。北海道の、士別、標津などと表記される地名(シベツ)が、これなのだろう。青森県以南にはシベ…の地名はないので(大字では)、シブと変化した可能性がある。

Google地図で至仏山を見ると、
至仏山の東側が、尾瀬のある利根郡みなかみ町戸倉、西側が利根川の上流である みなかみ町藤原(旧藤原村)である。
尾瀬には湿原へ流れこむ沢がたくさんある。渋沢は見つからなかったが、山の西側の、利根川の水源地の地名が藤原であることに驚いた。

藤原という地名については、
折口信夫の『水の女』によれば、藤原?渕原は、水源地のことだった(関連記事「幡羅(原)という地名)。
利根川の水源地の村の名が藤原だということは、「水の女」が書かれたころは、一定の人たちの共通知識だったのではなかろうか。
大日本地名辞書に、「利根の水源は藤原山に出づるとの事は、早く義経記に之を道破せり」と書かれる。今は藤原山は最北部の1つ手前の山の名であり、その奥の大水上山が、今は利根川の水源地とされる。藤原は、広い平原というほどのものはないような、山間の土地である。
地名辞書によると、安倍氏が潜んでいたとか八掬脛の伝説もあるようだ。奥州藤原氏のことは書かれていない。義経記の本の成立はともかく、義経の時代に藤原の地名はあったとみているのだろう(落ち武者はそのあと)。
東京都西多摩郡檜原村、秋川の上流の水源地にも藤原の地名がある。佐賀県にもある。さがせば他にもあるのだろう。

また、大和の藤原宮については、「運河と水の都であったらしい」と書いたことがある。
藤原宮の運河(神話の森のブログ)

さて、至仏山の話だが、地図では渋沢は確認できない。
調べると「尾瀬の地名とその由来」http://www.oze.gr.jp/?oze/yurai.html
に説明があった。

ムジナ沢  狢沢。別名至仏沢とも言い、登山道が開かれない時代はこの沢が唯一の登山ルートでした。至仏沢は渋沢の意味で沢の岩石が赤渋色をしており、また沢の藪くぐりの難行で登りつめたところから、この沢の名前が山の名前になったと言われています。

至仏沢の名が先で、山の名は後だという。
ムジナ沢は、至仏山から湿原へ続く短い沢であり、本流とはいえないかもしれず、「赤渋色」で良いのかもしれない。ただ、流れの方向は、他の多くの沢と異なり、樹木でいえば幹の中心に見えるので本流といえるかもしれず、至仏沢という貴い文字も使われている。検討課題としておく。
とはいえ、この地に集落が営めるかどうかは不明であり、至仏沢が渋沢氏の本貫とも思えないので、もっと南のほうにあるのかもしれない。

そのほかのアイヌ語地名(「渋」がすべてsi-petとは限らない)
 simpuy, -e しプィ 湧水の穴; 自然の井戸。(渋井?)

地図の右下に至仏山。濃い青でなぞったのが至仏沢。湿原の南北に多数の沢がある。赤線内が藤原、最北部に藤原山。

* 徴庵 徴庵とは造語だろうが、隠れ家のような意味ではあるが、渋沢仁山の作ったある漢詩の内容から考えるに、「徴士の庵」の意味だろう。徴士とは、「朝廷から直接招かれながら、官職につこうとしない学徳の高い人。▽これをほめて徴君ともいう。」と漢字源にある。「徴君」は他人による尊称なので「徴士」の意味だろう。

武蔵国幡羅郡の範囲と人口

武蔵国幡羅郡の奈良平安時代の人口を推定してみよう。

参考 wikipedia 近代以前の日本の人口統計
ここに記載の鬼頭宏氏による武蔵国の人口から、和名抄の郷数割(6.7%、8/119)で計算すると、
 奈良時代 武蔵国:130,700人 幡羅郡:8750人余
 900年ごろ武蔵国:257,900人 幡羅郡:17200人余。

これは大変な数の人口である。

江戸時代の人口と比較してみよう。天保期の幡羅郡の範囲の戸数を調べて見ると、小村2村が不明だが、55村で3657戸。不明分を考慮しておよそ3700戸。1戸5人として、18500人となる。(このデータは新編埼玉県史付録の冊子をOCRして、配布目的でよく校正したつもりのもので、CSVエディタのマクロで計算した。)

既に平安初期に、江戸時代とあまり変らないといっていいほどの人口に達している(!?)。
江戸時代には原野はほぼ皆無のこの狭い(*)地域で、土地は開墾し尽くして、やっと18500人を養っている地域である。
平安初期に17200人とは、何かの間違いなのだろうか。

さらに当時は、南の大里郡との郡境に荒川が流れていたとされるので、郡境に広大な河原が広がっていたことを想定すると、幡羅郡の面積はさらに狭くなる。人口密度は江戸時代よりも大きかったともなりかねない。
幡羅郡は、古墳時代以前から人口密度の多い地域と思われるので(土着勢力が多いのだろう)、他の地域のように奈良時代から平安時代にかけて2倍には増えないという想定もできるが、わからない。
同じ鬼頭氏のデータで、1600年(江戸の町ができる前)ごろの武蔵国は708,500人。700年前からほぼ3倍に増えているのに、幡羅郡は700年前に人口頭打ちということになってしまう。
 900年ごろ武蔵国:257,900人 幡羅郡:17200人余。
 1600年頃 武蔵国:708,500人 幡羅郡:18500人(天保期)

やはり奈良平安時代の幡羅郡は、範囲を広げて考えなければ、話にならないことがわかる。

吉田東伍によれば、当時の幡羅郡は広範囲であり、
江戸時代の榛沢郡域である今の深谷市の旧深谷町、藤沢地区、武川地区を含め、
埼玉郡域である、今の熊谷市の中条地区、旧成田村、などを含めるべきとしている。妥当であろう。成田氏は「幡羅の大殿」と呼ばれている。この「幡羅」はハタラと読まれたろうと吉田東伍はいう。
もしも吉田東伍の時代に、鬼頭宏氏の方法があったならば、吉田東伍説への評価は違ったはずである。
郡域変更について想像できることは、東側では、埼玉の国造勢力の衰退に前後していくつかの郷(下秦上秦等)が郡を移動し、後世に成田氏の埼玉進出とともに元に復したのかもしれないとか、西側では、後世に児玉榛沢方面の武将が進出してその郡域を広げたかもしれない、ということもあるだろうか。

余談だが、これだけの人口密集地帯には、「渡来人」のための居住スペースを多く提供するのは難しいのではないだろうか。他に人口の少ない地域は数えきれぬほどあるであろう。
世界史的には十分中世の時代である。律令制は外国との交流や文化面等の面では評価できるが、政治的には台頭する地方(中世的世界)を押さえようとする反動という側面もあるのではないか。

※ 江戸時代の幡羅郡の広さは、昭和30年に人口5万人ほど(深谷町2万、他3万)で成立したときの深谷市より2?3割程度大きいだけの広さである。